幕末・維新

坂本龍馬が暗殺されるまで駆け抜けた33年激動の生涯~暗殺犯は誰だ?

たとえ西郷隆盛の懐がどれだけ深くとも。

たとえ新選組土方歳三がどれだけイケメンでも。

たとえ五代友厚が隠れた人気キャラであろうとも。

幕末を最も熱狂的に駆け抜けたのは誰かと問われたら、絶対、この男には勝てない――。

それが坂本龍馬でしょう。

特に歴史に詳しくない小学生からおばあちゃんまで。

戦国時代なら織田信長で、幕末ならば坂本龍馬と相場が決まっている、と言い切りたいところですが、問題がないワケじゃありません。

龍馬というのは、とにかく真の姿が見えづらい。

それはもう数多のフィクションで多彩な描き方をされているわけで、その業績が正しく理解されているのか?というと、YESとは即答しにくいのです。

既成概念にとらわれない天才――そんな曖昧模糊とした改革者イメージは本当なのか?

本稿では、坂本龍馬の軌跡を、史実ベースで地道に拾ってみたいと思います。

 

土佐藩郷士の子として誕生

坂本龍馬は天保6年(1835年)、土佐藩の町人郷士・坂本家の二男として誕生しました。

薩摩藩の西郷隆盛より7才、長州藩の木戸孝允桂小五郎)より2才若く、新選組の土方歳三は、ちょうど同い年になりますね。

父は坂本直足で、生母は幸。
龍馬と長兄・権平直方は、21才も年齢差があります。

12才で幸が亡くなったあと、龍馬の育ての母となったのは伊与でした。

家族構成をまとめますと、以下の通りです。

父:八平直足

生母:幸

義母:伊与

長男:権平直方

長姉:千鶴

二姉:栄

三姉:乙女

二男:龍馬

坂本家の特徴として、女性が強いということがあげられます。

さらには戦国時代まで先祖を遡ると、山賊6人を斬り伏せたとされる「おかあ殿」というも女傑がいるそうです。

養母の伊与は厳しい女性でした。よく龍馬を板の間に座らせて、反省させていたそうです。

彼女は長刀(なぎなた)の名手であり、龍馬が剣術修行に励んだのも、この養母の影響があったかもしれません。

後に龍馬は、長刀の目録を受けています。

3人いた姉の中最も有名なのは、年齢の近い乙女です。フィクション作品でもお馴染みですね。

坂本乙女/wikipediaより引用

実際の乙女も大柄で大変気が強く、「坂本のお仁王様」というあだ名でも知られていました。

龍馬が乙女に宛てた手紙の数々は、貴重な史料です。

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ちなみに高知県には「はちきん」というしっかりした気丈な女性を指す言葉があります。

龍馬の周囲にも、こうしたしっかり者の女性が多かったのでしょう。

恋人であった千葉さな子、妻のおりょうも、気の強い女性でした。

龍馬は、気の強い女性と縁が深かったのですね。

 

江戸遊学

龍馬は、12〜14才頃には地元の剣術道場に出入りを始めました。

それから数年後、19才になると江戸へ剣術修行に向かい、北辰一刀流の千葉定吉の門下生となりました。

当時の剣術修行は、剣術を鍛えるだけでなく、武士として総合的な素養を磨くための場でもあります。

たしなみとして剣術を学び、それなりの修行を積んだとしても、切った張ったが大嫌いで刀を抜かなかった人もいました。

師となる勝海舟が、まさにそういうタイプ。

龍馬についても、剣術よりもピストルの携帯を好んでいた――というイメージがありますよね?

実際にピストルで刀に対して応戦することがありました。それが良かったかどうか断言できません。

というのも、当時は来日外国人たちですら「刀の前でピストルは無力」と認識していたほどです。

幕末には、ピストルで応戦しようとしている間に、斬り殺されることもありました。

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ならば龍馬も刀で戦うべきであったのか?

そこは難しいところです。

当時の剣術はスポーツ化しています。

ガチの殺人剣といえば、新選組幹部が使いこなした天然理心流や、薩摩藩士が学んだ薬丸自顕流or示現流ぐらいで、そうでない場合は道場剣術の名人だからといって必ずしも実戦で強かったとは限りません。

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彼らに出会わない限りは鉄砲でも効果は十分だったでしょうし、逆に狙われたらいかに龍馬の剣が凄まじくとも、複数に囲まれたらお手上げだったと思われます。

 

海運の志、芽生える

龍馬が江戸滞在中の嘉永6年(1853年)、大事件が起こります。

アメリカからペリーが来航したのです。

龍馬も、土佐藩士として江戸の警備を担当。

当時は、父宛の手紙に
「異人の首を斬っちゃる!」
と書いていて、ありふれた攘夷思想の持ち主でした。

ペリー来航/wikipediaより引用

千葉道場といえば、龍馬と千葉重太郎の妹・さな子とのロマンスが知られています。

姉・乙女への手紙から察するに、恋心は確かにあったようです。

ちなみに、龍馬にとってのちの妻となる楢崎龍は、龍馬から聞いたとの前提を入れて、かなり手厳しい【さな評】を語り残しています。

元交際相手を妻相手に褒めることもできなかったのでしょう。

安政元年(1854年)、遊学期間を終えた龍馬は土佐に帰国。

土佐は、大地震と津波のあとで、甚大な被害を受けていました。東日本大震災以来、大きく懸念されている南海トラフ巨大地震が襲ったのです。

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そんな中、龍馬は、絵師・河田小龍のもとを訪れました。

河田は、ジョン万次郎からアメリカ事情の聞き書きを行った人物で、坂本家からそう遠くないところで塾を開いていました。

この熟で、龍馬は近藤長次郎、長岡謙吉らと出会うことになります。

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そこで河田は龍馬に、こう語ったと伝わります。

「何としたち一艘船を買い求めて、同志とともに操り、東西を行き来して荷物や客を運びながら利益を出せば、航海術を学ぶこともこたうはずだ」

船を買い入れ、操船を学びながら商業を行う――その大きな構想に、龍馬の心は躍りました。

闇雲に異人を殺すのではない。そこから大きく踏み出して【貿易する】という考えを抱いたのです。

頑なな尊皇攘夷主義から、龍馬は一歩進みました。

 

激動の政局

安政2年(1855年)、父・八平死去。

坂本家の家督は兄・権平が相続しました。

あわただしい中で翌安政3年(1856年)、龍馬は再び江戸へ向かいます。このとき、北辰一刀流における長刀の免状を受けました。

絶えず政局は激動していました。

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老中・堀田正睦と岩瀬らは京都に向かい勅許を得ようとしますが、失敗に終わり。

この交渉のあと、水戸藩に【戊午の密勅】が降されていたことが判明します。

大老に就任した井伊直弼は、密勅に関わった一橋派(将軍継嗣問題で一橋慶喜を推した派)に怒りを爆発。

結果【安政の大獄】という最悪の結果につながりました。

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そしてその影響は、土佐藩にもあったのです。

土佐藩主の山内容堂(豊信)は「幕末の四賢侯」の一人にも数えられておりました。

幕末の四賢侯

土佐第15代藩主・山内容堂

薩摩第11代藩主・島津斉彬

福井第14代藩主・松平春嶽(慶永)

宇和島第8代藩主・伊達宗城

彼らは困難な政局において、もはや旧来のやり方ではいけないと、改革を願っていました。

将軍継嗣問題で浮上した一橋慶喜は、本来ならば対抗相手である徳川慶福(のちの徳川家茂)とは、血縁的に比べものにならないほど、正統性が薄かったのです。

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そうした血統の正統性を超えてでも、敢えて慶喜を将軍とする――。

そのことこそ、改革であると彼らは信じたのでした。しかし……。
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