たとえ西郷隆盛の懐がどれだけ深くとも。
たとえ新選組の土方歳三がどれだけイケメンでも。
たとえ五代友厚が新進気鋭の人気キャラであろうとも。
幕末を最も熱狂的に駆け抜けたのは誰か?と問われたら、絶対、この男には勝てない――。
それが天保6年(1835年)11月15日に生まれ、慶応3年(1867年)11月15日に亡くなった坂本龍馬でしょう。
特に歴史に詳しくない小学生からおばあちゃんまで。
戦国時代なら織田 信長で、幕末ならば坂本龍馬と相場が決まっている、と言い切りたいところですが、問題がないワケじゃありません。
龍馬というのは、とにかく真の姿が見えづらい。
それはもう数多のフィクションで多彩な描き方をされているわけで、その業績が正しく理解されているのか?というと、YESとは即答しにくいのです。
既成概念にとらわれない天才――そんな曖昧模糊とした改革者イメージは本当なのか?
本稿では、坂本龍馬の軌跡を、史実ベースで地道に拾ってみたいと思います。

左が慶応3年のころの一枚で、右が上野彦馬の写真館で撮影されたもの/wikipediaより引用
土佐藩郷士の子として誕生
坂本龍馬は、前述の通り天保6年(1835年)11月15日、土佐藩の町人郷士・坂本家の二男として誕生しました。
命日も慶応3年(1867年)の11月15日で同一という珍しい方ですが、それはさておき。
年齢的には、薩摩藩の西郷隆盛より7才、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)より2才若く、新選組の土方歳三は、ちょうど同い年になりますね。
父は坂本直足で、生母は幸。
龍馬と長兄・権平直方は、21才も年齢差があります。
12才で幸が亡くなったあと、龍馬の育ての母となったのは伊与でした。
家族構成をまとめますと、以下の通りです。
父:八平直足
生母:幸
義母:伊与
長男:権平直方
長姉:千鶴
二姉:栄
三姉:乙女
二男:龍馬
坂本家の特徴として、女性が強いということがあげられます。
さらには戦国時代まで先祖を遡ると、山賊6人を斬り伏せたとされる「おかあ殿」というも女傑がいるそうです。
養母の伊与は厳しい女性でした。よく龍馬を板の間に座らせて、反省させていたそうです。
彼女は長刀(なぎなた)の名手であり、龍馬が剣術修行に励んだのも、この養母の影響があったかもしれません。
後に龍馬は、長刀の目録を受けています。
3人いた姉の中最も有名なのは、年齢の近い乙女です。フィクション作品でもお馴染みですね。
実際の乙女も大柄で大変気が強く、「坂本のお仁王様」というあだ名でも知られていました。
龍馬が乙女に宛てた手紙の数々は、貴重な史料です。
ちなみに高知県には、シッカリとして気丈な女性を示す「はちきん」という言葉があります。
龍馬の周囲にも、こうしたしっかり者の女性が多かったのでしょう。
恋人であった千葉さな子、妻のおりょうも、気の強い女性でした。
龍馬は、気の強い女性と縁が深かったのですね。
江戸遊学
龍馬は、12〜14才頃には地元の剣術道場に出入りを始めました。
それから数年後、19才になると江戸へ剣術修行に向かい、北辰一刀流の千葉定吉の門下生となりました。
当時の剣術修行は、剣術を鍛えるだけでなく、武士として総合的な素養を磨くための場でもあります。
たしなみとして剣術を学び、それなりの修行を積んだとしても、切った張ったが大嫌いで刀を抜かなかった人もいました。
師となる勝海舟が、まさにそういうタイプ。
龍馬についても、剣術よりもピストルの携帯を好んでいた――というイメージがありますよね?
実際にピストルで刀に対して応戦することがありました。それが良かったかどうか断言できません。
というのも、当時は来日外国人たちですら「刀の前でピストルは無力」と認識していたほどです。

幕末には、ピストルで応戦しようとしている間に、斬り殺されることもありました。
ならば龍馬も刀で戦うべきであったのか?
そこは難しいところです。
当時の剣術はスポーツ化しています。
ガチの殺人剣といえば、新選組幹部が使いこなした天然理心流や、薩摩藩士が学んだ薬丸自顕流or示現流ぐらいで、そうでない場合は道場剣術の名人だからといって必ずしも実戦で強かったとは限りません。
彼らに出会わない限りは鉄砲でも効果は十分だったでしょうし、逆に狙われたらいかに龍馬の剣が凄まじくとも、複数に囲まれたらお手上げだったと思われます。
海運の志、芽生える
龍馬が江戸滞在中の嘉永6年(1853年)、大事件が起こります。
アメリカからペリーが来航したのです。
龍馬も、土佐藩士として江戸の警備を担当。
当時は、父宛の手紙に「異人の首を斬っちゃる!」と書いていて、ありふれた攘夷思想の持ち主でした。
千葉道場といえば、龍馬と千葉重太郎の妹・さな子とのロマンスが知られています。
姉・乙女への手紙から察するに、恋心は確かにあったようです。
ちなみに、龍馬にとってのちの妻となる楢崎龍は、龍馬から聞いたとの前提を入れて、かなり手厳しい【さな評】を語り残しています。
元交際相手を妻相手に褒めることもできなかったのでしょう。
安政元年(1854年)、遊学期間を終えた龍馬は土佐に帰国。
土佐は、大地震と津波のあとで、甚大な被害を受けていました。
東日本大震災以来、大きく懸念されている南海トラフ巨大地震が襲ったのです。
そんな中、龍馬は、絵師・河田小龍のもとを訪れました。
河田は、ジョン万次郎からアメリカ事情の聞き書きを行った人物で、坂本家からそう遠くないところで塾を開いていました。

ジョン万次郎/wikipediaより引用
この熟で、龍馬は近藤長次郎、長岡謙吉らと出会うことになります。
そこで河田は龍馬に、こう語ったと伝わります。
「何としたち一艘船を買い求めて、同志とともに操り、東西を行き来して荷物や客を運びながら利益を出せば、航海術を学ぶこともこたうはずだ」
船を買い入れ、操船を学びながら商業を行う――その大きな構想に、龍馬の心は躍りました。
闇雲に異人を殺すのではない。そこから大きく踏み出して【貿易する】という考えを抱いたのです。
頑なな尊皇攘夷主義から、龍馬は一歩進みました。
激動の政局
安政2年(1855年)、父・八平死去。
坂本家の家督は兄・権平が相続しました。
あわただしい中で翌安政3年(1856年)、龍馬は再び江戸へ向かいます。このとき、北辰一刀流における長刀の免状を受けました。
絶えず政局は激動していました。
ハリスと岩瀬忠震ら日米修好通商条約交渉が煮詰まっていたのです。
老中・堀田正睦と岩瀬らは京都に向かい勅許を得ようとしますが、失敗に終わり。
この交渉のあと、水戸藩に【戊午の密勅】が降されていたことが判明します。
大老に就任した井伊直弼は、密勅に関わった一橋派(将軍継嗣問題で一橋慶喜を推した派)に怒りを爆発。
結果【安政の大獄】という最悪の結果につながりました。
水戸藩士らの怒りをかった井伊直弼も【桜田門外の変】で凶刃に斃れます。

井伊直弼/Wikipediaより引用
そしてその影響は、土佐藩にもあったのです。
土佐藩主の山内容堂(豊信)は「幕末の四賢侯」の一人にも数えられておりました。
幕末の四賢侯
彼らは困難な政局において、もはや旧来のやり方ではいけないと、改革を願っていました。
将軍継嗣問題で浮上した一橋慶喜は、本来ならば対抗相手である徳川慶福(のちの徳川家茂)とは、血縁的に比べものにならないほど、正統性が薄かったのです。
そうした血統の正統性を超えてでも、敢えて慶喜を将軍とする――。
そのことこそ、改革であると彼らは信じたのでした。
望みは、井伊直弼が将軍継嗣を慶福と定めたことで潰えました。

徳川家茂/wikipediaより引用
さらに安政の大獄で処罰を受けることにもなり、龍馬のお殿様となる山内容堂も隠居を余儀なくされました。
この時点で、まだ33才。
新たな藩主の豊範は14才。
当然ながら、以降も容堂が土佐藩を動かし続けて参ります。
ただし、それは安政の大獄の影響が消えてからのこととなります。
土佐勤王党
坂本龍馬という人物は、狭量にもなりがちな尊皇攘夷派とはひと味違います。かといって尊皇攘夷思想と無縁ではありません。
国のためを思い、龍馬が接触したのは「土佐勤王党」でした。
「土佐勤王党」とは、文字でわかる通り、土佐藩で尊皇攘夷の志を掲げるものです。
彼らの目的は「老公=山内容堂」の志を全うし、皇国のために尽くすこと。
◆薩摩藩の「精忠組」
◆長州藩の「松下村塾」
◆土佐藩の「土佐勤王党」
こうしたグループは、幕末史において非常に重要な役割を担っています。
龍馬もこの志に感銘を受け、土佐勤王党の一員として名を連ね、長州藩の尊皇攘夷派・久坂玄瑞とも交流しています。
しかし……。
龍馬はすぐに、土佐勤王党とは気が合わないと気づきました。彼らは「君側の奸を除く」と主張し、そのためには強硬手段も辞さなかったのです。
「君側の奸を除く」という考えは、実は東アジアでは伝統的な考え方です。
要するに、主君は悪くないが、主君をたぶらかす奸臣がいるから、それを斃す。表向きの名分はそういったスタンスでしょう。
しかし、あくまで君主は悪くないと言いながら、結果的には自分たちにとっての政敵を排除するために強硬手段を辞さないというものでして。
幕末にも猛威をふるった考え型ですね。
土佐勤王党が目を付けた奸臣は、吉田東洋でした。
正義のために、吉田東洋を暗殺する――。
その計画に、龍馬はついていけなかったのです。
最初の脱藩
文久2年(1862年)、龍馬は脱藩することにします。
龍馬だけではありません。このころには土佐勤王党の過激さについていけなくなった者が、袂を分かっていました。
とはいえ、龍馬の尊皇攘夷活動が無駄になったわけではありません。
龍馬は尊皇攘夷活動を通して、様々な人脈を築きました。
長州藩・萩にも滞在して、久坂玄瑞ら長州藩士とも交流しています。

萩市にある久坂玄瑞像
誰とでも打ち解ける龍馬は、多くの人に好印象を与えました。
文久2年(1862年)、龍馬は一度目の脱藩を果たします。吉田東洋暗殺に関与することを避け、もっと大きな世界を見るため、土佐を離れたのです。
脱藩の際に、二姉・栄が銘刀「陸奥守吉行」を渡し、自害したという逸話があります。
司馬遼太郎著『龍馬がゆく』でも出てきた逸話ですが、近年は否定されています。
栄の没年にはいくつか説があり、近年、確定した没年によれば、栄は龍馬の脱藩よりはるか前、嫁ぎ先で亡くなっていたことが判明しました。
2010年大河ドラマ『龍馬伝』では栄が登場せず、乙女が刀を渡すという展開になっています。
勝海舟との出会い
文久2年(1862年)末、龍馬は勝海舟(当時は勝麟太郎、本項では勝海舟で統一)と出会い、その門下に入りました。
海運が将来的に役に立つ、そう考えていた龍馬。軍艦奉行並はうってつけの相手といえます。
ここで有名なのが、勝海舟との出会いでしょう。

勝海舟/wikipediaより引用
当初頑固な尊王攘夷主義者であった龍馬は、攻撃的な態度で勝と対峙、説得されて180度態度を改めた、とされることがあります。
これは勝の回想に基づく逸話ですが、実際にはこの前に松平春嶽(松平慶永・橋本左内の主君)と面会し、紹介状をもらっています。
勝は話を誇張している――と見たほうが確実でしょう。
文久2年という歳は、幕末史におけるターニングポイントのひとつです。
島津久光が兵を率いて上洛、幕府に政治改革を迫ったことにより、一橋派が復活したのです。
山内容堂、松平春嶽らも、政治力を復活させました。
ただし、容堂と春嶽はあくまで「公武合体」派であり、倒幕派になることはありません。
江戸時代、脱藩はどの藩でも罪でした。
藩によって軽重の差はあり、寛容なところもあれば、厳しく罰するところも。
土佐藩は、薩摩藩とならび厳しい態度を取っておりましたが、勝が山内容堂に働きかけたことにより、文久3年、龍馬は赦免されています。
このころから龍馬は、夢であった海運へ、近づいてゆきます。
勝の門人として、神戸海軍操練所の設立に向けて奔走するようになったのです。
幕末の海軍は、政治闘争が陸上の京都で行われていたため、あまり注目されない存在です。
しかし、決して使い物にならなかったわけでも、発展しなかったわけでもありません。
龍馬は、この幕府海軍の発展に関与していたのです。
「神戸海軍操練所」には、幕府の枠を越えた多くの逸材が集まりました。
龍馬はこうした中で松平春嶽からも資金面で援助を引き出しています。越前福井藩でも人脈を築きあげ、由利公正らとも交流があったのでした。

海軍操練所跡碑/photo by Pastern wikipediaより引用
しかし、神戸海軍操練所は思わぬところで挫折します。
【八月十八日の政変】や【禁門の変】で、長州藩および尊皇攘夷過激派が政治的に退潮したことをきっかけとして、神戸海軍操練所にも疑いの目を向けられたのです。
幕府の組織でありながら、尊皇攘夷思想を持つ危険な者がいるのではないか?
そう疑われて結局、慶応元年(1865年)には閉鎖されてしました。
土佐勤王党壊滅
政治権力を取り戻した容堂は、土佐勤王党へ怒りを募らせていました。
土佐勤王党の指導者だった武市半平太が、下級武士出身であること。それが容堂の反発の理由とされますが、そう単純な話でもありません。

武市瑞山(武市半平太)/wikipediaより引用
容堂と土佐勤王党の対立は、島津久光と精忠組のソレと似た構造を持っています。
当初は藩主のアンダーコントロールであったはずの活動が、次第に過激化していった。そこが問題なのです。
君主の怒りを避けるため、彼らは前述の通り、
【主君に逆らうわけではありません。我々は、あくまで君側の奸を取り除きたいのです】
というロジックを用いるわけです。
ただ、幕末においてその理屈が通じることはむしろ少ない……いや、あったのかという話です。
主君側からすれば「私が信じて重用している大事な家臣を排除しようとしておいて、何をほざくか!」というわけですね。
これは、山内容堂や島津久光だけではなく、孝明天皇でも同様でして。
尊王攘夷過激派は、武力によるテロリズムや、倒幕を肯定していました。しかし、彼らがその意思を尊重しているはずの孝明天皇は、そうした流血沙汰をまったく快く思っていなかったのです。
むしろ孝明天皇は、熱心な公武合体派。幕府と協力して難局を乗りきりたいと考えていました。
過激な尊王攘夷派の
・天皇の意思をも無視
・藩主すらないがしろにする
・血腥いテロリズムすら辞さない
という条件が揃っていた危険分子たちが処罰されないほうが不自然です。
明治維新の後、明治政府の元勲に元尊王攘夷過激派が含まれるため、そのあたりがぼかされてしまい、わかりにくくなりがちです。弾圧されるだけの理由はあったのです。
容堂からしても土佐勤王党を弾圧する理由があるとはいえ、龍馬にとってはかつての仲間が処罰されてしまいました。
しかも、切腹を命じられた平井収二郎は、龍馬の恋人であった加尾の兄。酷いことだ、と龍馬は手紙で嘆いています。
そして土佐勤皇党は、慶応元年(1864年)までに岡田以蔵、武市瑞山らが切腹に追い込まれ、壊滅しました。
龍馬と中岡慎太郎はこうした壊滅には巻き込まれず、別途行動して名を残すことになります。
それどころか、吉田東洋にとって義理の甥であり、土佐勤王党処断に尽力した後藤象二郎と接近。後藤は、土佐藩内の公武合体派として活躍します。

後藤象二郎/wikipediaより引用
このあたりが龍馬という人物の大きなところではないでしょうか。
彼は倒幕派とも、公武合体派とも接近できる、極めて広い人脈・思想の持ち主でした。
薩長の同盟前夜
さて、坂本龍馬は幕末海軍の発展に寄与した、と記しました。
言うまでもないことですが、龍馬第一の功績はそのことではありません。
犬猿の仲だった薩長の手を膠(にかわ)のように結ばせた【薩長同盟】こそ、真っ先にあがる功績です。
西郷隆盛と木戸孝允という険悪な薩長の人間すら取り持つ龍馬。

西郷隆盛/wikipediaより引用
そのことばかりに注目し過ぎると、龍馬の個人的な賞賛に行き過ぎることもあります。
ここは改めて、薩長の盟約の意義、背景について考えてみたいと思います。
そもそも、なぜ、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であったのか?
正確にいうと、長州藩が敵を作りすぎていたという状況になります。
長州藩は「奉勅攘夷」を掲げていました。朝廷工作を行い自分たちに有利にある勅を出させ、外国船の砲撃や幕府を挑発するといった、過激な行動をとり続けました。
この行動に誰よりも激怒したのが、孝明天皇です。

孝明天皇/wikipediaより引用
孝明天皇は、自分があずかり知らぬところで、勝手に長州藩に有利な勅が出されることに不快感を出していました。自身が公武合体派であり、幕府と対立する気もなかったのです。
そして文久3年(1863年)。
孝明天皇の不信感は頂点に達し、長州藩は京都から追いやられます(八月十八日の政変)。
その翌年、巻き返しをはかった長州藩が京都へと進軍して、御所へ発砲。これでついに、長州藩は朝敵認定されてしまいました。
この動きには、孝明天皇の意志を受けた勢力として、薩摩藩が会津藩と共に積極的に関わっていました。
このことを長州藩士は激しく恨み、「薩賊会奸」と履物に書いて踏みつけて歩いた、と伝わります。
さらに長州藩は、報復として薩摩藩の船を撃沈し、島津久光の殺害予告をバラ撒きました。
この船の撃沈には龍馬も関わりがあります。
船の撃沈とともに薩摩藩で航海術を知る者が減ったため、指導者として龍馬が招かれたことがあるのです。
薩摩藩側もやられっぱなしのはずはありません。
長州藩には憎悪を募らせています。
藩主の父である久光の殺害までほのめかされて、腹が立たないわけもないのです。
そんな両者を取り持ったのだから、龍馬はすごい――と言いたくなりますが、ここもそう単純な話でもありません。
同盟の背景として、幕末政治の混乱と、島津久光がそうした政治闘争に失望していたこと。
特に、徳川慶喜への失望は顕著でした。

徳川慶喜/wikipediaより引用
久光自身は一橋慶喜と面識はありませんでした。が、兄・島津斉彬がかつて将軍として擁立しようとしていた人物である。
そうした経緯もあり、文久2年(1862年)に上洛した際には、慶喜の謹慎解除を政治改革の一端として幕府に求めたのです。
同盟の前にソロバン勘定があった
慶喜は将軍の後見となり、家茂死後は将軍として君臨することになります。
しかし、慶喜と久光は合議制の政治において激しく対立するようになりました。
弁が立ち、策略に長けた慶喜は、そうした中で会津藩と桑名藩と手を組みます。会津藩は孝明天皇の信任があつく、天皇の歓心をかうためには彼らと手を組むことが重要であったのです。
会津藩と桑名藩は政治的な野心は薄く、御しやすい相手でもありました。
こうした慶喜を中心とした派閥は「一会桑」と呼ばれます。
しかしこの派閥は、孝明天皇の崩御もあり、程なくして翳りが見えてきます。
一会桑への巻き返しをはかるチャンス!
こうした状況の中、薩摩藩は長州藩に接近しました。
「長年の恩讐を越えて、倒幕という目的のために手と手を取り合った薩長!」
美しいイメージがあるかもしれませんが、そういう歴史ロマンの前に、ドライな政治判断もあるということですね。
龍馬の死ぬ気の働きによって心を動かされた――というのはいかにも面白いストーリーですが、両藩共に現実問題、多数の藩士を抱えているワケです。
互いのソロバンが弾かれないなどありえません。

左から西郷隆盛・坂本龍馬・木戸孝允/wikipediaより引用
また、同盟を結んだ時点では、倒幕までは考えていませんでした。
あくまで当初の目的は【長州藩の朝敵認定取り消しを目指す】ということです。
では、なぜ坂本龍馬が仲介だったのか?
2018年6月、アメリカと北朝鮮の会談が決まりました。
開催地はシンガポール。
なぜ、坂本龍馬の記事でそんなことに触れたのか?
薩長同盟の仲介にも通じるところがあるからです。
すなわち以下の二点。
・両者にとって中立性が高い
・過去に実績がある
土佐藩は、薩摩藩と長州藩から適度に距離があり、中立。その一方で、龍馬は尊皇攘夷活動を通して顔が広く、人脈や実績もある。
中立性と、親密さが、両方バランスよく備わっていたのが、龍馬というわけです。
龍馬が「薩長同盟」を成し遂げたのは、英雄的な何かがあるからだ――そう思いたくなる気持ちはわかりますが、英雄性という具体的に測定できない要素よりも、まずこうした背景があったのでしょう。
むろん、それは龍馬の積極的な行動、親しみやすい性格といった、日頃の行動と人間的魅力があってこその話でしょう。
結果、慶応2年(1866年)1月、龍馬の斡旋もあって、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩では盟約が成立したのです。
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寺田屋を脱出後にハネムーン
京都の動乱の最中、龍馬は彼好みの気の強いとある女性と深い仲になっておりました。
彼女の名は、楢崎龍。
【安政の大獄】で亡くなった活動家ともつきあいのある、いわば勤王の遺児でした。

楢崎龍/wikipediaより引用
おりょうは、女郎に身を売られた妹を奪還するため、悪漢を殴り飛ばしたともいう、気の強い女性です。
龍馬は彼女のことを、乙女宛の手紙に「まことにおもしろく女」と書いています。
京都で活動する龍馬は彼女を気に入り、「寺田屋」に預けていました。
おりょうはここで「春」と名を変えて、働くこととなりました。
「薩長同盟」斡旋という、大役を果たした慶応2年1月23日(1866年3月9日)。
龍馬は、なじみの宿である「寺田屋」に宿泊していました。
長州藩の三吉慎蔵らとともに宿にいた龍馬。
その深夜、30人ほどの捕り方が宿を包囲。
異変を察知したおりょうは、風呂からあがると濡れた肌に袷一枚を素早く着て、二階にいた龍馬たちに危難を知らせました。
間一髪逃れた龍馬たちは、傷を負いながらも薩摩藩邸に匿われます。
この後、龍馬とおりょうは、二人で薩摩に滞在し、傷の療養にあたりました。
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これが日本初のハネムーン説もある旅行です(※龍馬が初のハネムーン説として有名ですが、実際は薩摩の小松帯刀が最初ではないか?という話です)。
亀山社中から海援隊へ
話が前後します。
「神戸海軍操練所」も、「土佐勤王党」もなくなった中、龍馬は念願の海運組織を作ることとなりました。
長崎の亀山で発足した組織・「亀山社中」です。
貿易と、物資の運搬で利益を得て、そのために必要な航海術を学ぶという、画期的な取り組み。
この「亀山社中」を通じて、薩摩藩・長州藩に軍艦購入を斡旋しており、そうした実績が薩長同盟の仲介者として選ばれる要因となっています。
取引を通じて、両者から信用を獲得していたのですね。
慶応3年(1867年)には、「海援隊」としてリニューアル。
これを契機に、龍馬は脱藩の罪を許されました。
構想としては「陸援隊」もセットでありましたが、こちらは設立が遅れています。
身分を問わず加盟することができ、航海術から語学まで、実利的な学問も修得できる、これまた画期的な組織でした。
その斬新な組織にあやかろうと、「海援隊」と「陸援隊」は、その名にならった組織がいくつかあります。
「陸援隊」という会社に関しては、劣悪な労働条件が引き金となった事故を起こすことで注目を浴びるという事態に陥っています。
龍馬の名誉のためにも、今後はこのようなことはないよう願います。
暗殺
慶長3年(1867年)にかけて、龍馬は大政奉還でも大きな役割を果たしております。
新しく訪れるであろう世の中に、さぞかしワクワクな心持ちであったでしょう。
しかし……。
運命は非情でした。
11月15日、凶刃にかかり、落命してしまうのです。
享年33(満31歳没)。
その知名度ゆえに、龍馬の暗殺は黒幕が誰なのかと、詮索されがちです。
これについては、そもそもミステリでも何でもないものを、無理矢理そうしている、そんな要素があります。
この件に関しては、動機から犯人まで、すべて判明しています。
坂本龍馬暗殺の真相
【黒幕】会津藩主・松平容保
【実行犯】京都見廻組・今井信郎
動機は、大政奉還に納得できない会津藩による、形成巻き返しを狙ったもの。これでおおよその説明がつきます。
今井には、松平容保から「褒状」が送られたとの証言があります。

松平容保/wikipediaより引用
これでもう、ミステリは解決されてしまいます。
紀州藩や薩摩藩黒幕説といったことがささやかれますが、信憑性は低い。ちょっと意外性を狙い過ぎているのではないでしょうか。
当時から、龍馬暗殺に関しては混乱しました。
恨みをかっていた新選組説が信じられており、彼らに激しい憎悪がぶつけられることも。
それでも、真犯人の今井信郎の告白で、本来本件は決着がついたはずなのです。
なのになぜ、荒唐無稽な説が出てくるのか?
それは坂本龍馬というカリスマに依るものかもしれません。
幕末第一の人気者を殺した罪を背負いたくない。別の勢力に責任転嫁したくなるのでしょう。
当時の会津藩は追い詰められていました。そのあまり、乱暴な手段に頼ってもおかしくはないでしょう。
龍馬という夢
もしも、坂本龍馬が凶刃に斃れなければ――。
幕末における様々な「歴史if」の中でも、これほど甘美で、夢があふれる問いかけもありません。
ただし……坂本龍馬が総理大臣なり、明治政府の中枢で活躍できたかどうかは、なかなか難しいものがあります。
明治時代初期は「薩長土肥」と呼ばれ、土佐藩出身者は三番目に重要であるとされました。
しかし、時代がくだるにつれ「土肥」は排除されてしまうのです。
結果、土佐藩出身で戊辰戦争を戦い抜いた板垣退助は自由民権運動に身を投じました。

自由民権運動演説中に襲撃された、板垣退助を描いた錦絵/wikipediaより引用
龍馬も土佐藩出身である以上、政府の中枢に食い込めたか、かなり難しいところでないでしょうか。
政界進出に興味を持っていたのか、という問題もあります。
むしろ彼は、経済界に進出しそうな気がするのです。
海運に可能性を見いだしていた龍馬が、もしも明治の世でも生きていたら。
もっとも近い生き方をしたのは、彼と同じく開明的で商売っけが満ちあふれ、政府中枢からは外れていた、五代友厚ではないか?と個人的には思います。

五代友厚/国立国会図書館蔵
五代もその人脈を生かして、「大阪会議」を開催した実績があります。
政府は狭すぎて、世界相手にビジネスを手がける。
そんな姿が似合う気がするのです。
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【参考文献】
松岡司『定本坂本龍馬伝―青い航跡』(→amazon)
磯田道史『龍馬史 (文春文庫)』(→amazon)
桐野作人『龍馬暗殺 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編』(→amazon)
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編2』(→amazon)












