お市の方/wikipediaより引用

織田家 その日、歴史が動いた

戦国一の美女・お市の方はなぜ勝家と共に死んだ?二人の辞世にご注目

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世の中は盛者必衰。
興る者がいれば滅びる者もいます。
本日はその一つ、揃って自害すを選んだ夫婦のお話です。

天正十一年(1583年)4月24日、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家が、妻・お市の方と共に自害しました。

柴田勝家/wikipediaより引用

2人が自害すると、お市の方の娘たち――いわゆる浅井三姉妹は豊臣秀吉に引き取られます。
その後は長女・淀殿が秀吉の側室となり豊臣秀頼を産むわけですが、ここでは自害した2人のことを少し考えてみたいと思います。

 

賤ヶ岳から北ノ庄城まで約110km

豊臣秀吉と柴田勝家が織田家の後継を巡って直接ぶつかった――賤ヶ岳の戦いは、前田利家の戦線離脱などもあり秀吉の勝利となりました。

詳細は以下の記事に譲るとしまして。

賤ヶ岳の戦い~拮抗していた秀吉vs勝家 勝利のキッカケは利家だった?

豊 ...

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合戦に敗れた勝家は本拠地・北ノ庄城へ帰ってきました。
現在の福井城ですね。

この城は、賤ヶ岳から現在の道路で110km程度しか離れておらず、すぐに秀吉もやってきて包囲戦が始まります。

先鋒は突如戦線を離脱した後、秀吉方についていた前田利家。
他にも黒田官兵衛など賤ヶ岳とその付近で功を挙げた武将たちがたくさんいました。

24日の明け方に秀吉方が本丸にまで押し入ると、夕方には勝家とお市、そして、最後まで残った数十人の配下が自害したといわれています。

 

清州会議は秀吉の一方的勝利ではない!?

もともとお市の方は、1582年に北ノ庄城へ移っておりました。
織田信長の死後(本能寺の変山崎の戦い)に行われた清洲会議で、「勝家殿に嫁いでいただこう」ということになったのです。

「秀吉が勝家を丸め込むためにそう仕向けた」ともいわれていますが、そう単純なものではなかったようです。

信長というあらゆる意味で最強の庇護者がいなくなってしまったのですから、筆頭家老の位置にあった勝家の元へというのはおかしな話でもない。
存在感の大きな信長の妹を妻にできれば、勝家の立場が強まることにも繋がります。

要は【会議が一方的な秀吉の勝利ではなかった】ことを示している可能性も考えられるワケです。

信長の息子達はいろいろ問題があって叔母の庇護どころではありませんでしたし、ひとまず当主になった三法師(信長の孫で後に織田秀信)はまだ二歳でしたし。

「勝家がお市に惚れてるのを知ってたから」と見る向きもありますが……勝家とお市は25歳も離れてるんですよね。
いくら年の差婚が当たり前の時代とはいえ、それはどうかなあと個人的には思います。

しかも結婚していたのは1年ほどです。
信長死後のドタバタで勝家はとんでもなく忙しかったわけですから、夫婦らしく過ごしたことはほとんどなかったでしょう。

 

お市には、逃げるようにすすめていた!?

これらを総合して考えると、歳の離れた妻というよりも、どちらかといえば「亡くなった主君の妹」、もしくは「義理の娘」といった感じで大切にしていたんじゃないかなあという気がします。
はるか年下とはいえお市は三人の娘がいる母でもあります。

また、勝家は北ノ庄城へ帰ってから一度、お市に逃げるよう勧めたといわれています。

お市自身が「二度も逃げたくない」といって拒否、勝家と自害する道を選んだのですが、これも「愛する女性に生き延びてほしい」というより「まだ若いし、これからが大事な娘たちもいるから、母親がいなければダメだ」と思ったんじゃないでしょうか。

お市が自害を選んだ理由としては「秀吉が嫌いだったから」とか言われたりもします。
が、果たしてどうでしょうか。

娘達を直接秀吉に渡したあたり、100%毛嫌いしていたということもなかったんじゃないですかね。
本当に嫌っていたら、何としてでも秀吉ではなく違う武将の下へ落ち延びさせたのではないでしょうか。例えば前田利家あたりを頼っても良さそうなものです。

信長の存命中から浮気性で有名だった秀吉ですから、女癖の悪さがお市の耳に届いていた可能性は否定できません。
伝えられているお市の言動から「勝家や秀吉に対してどう思っていたか」をうかがい知ることはできないのですけどね。

 

二人の辞世に同じ言葉「ほととぎす」

辞世の句からも、単なる政略結婚とか、「秀吉が嫌いだから勝家と仕方なく運命を共にした」というわけではない気がします。

二人の辞世に勝家と同じ「ほととぎす」という言葉が入っているのです。
いつも通りの意訳と共にどうぞ。

◆お市
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
【意訳】「そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね」

◆勝家
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
【意訳】「夏の夜の夢のように儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我が名を雲の上へ語り伝えてくれまいか」

辞世に返歌をする、というのは度々ありますが、同じ単語を入れるというのはなかなかありません。

ほととぎすは古来からその声の美しさや「夜に鳴く」という特徴を愛でられてきた鳥で、和歌にもたくさん詠まれています。
もしかするとこの二つの辞世では、秀吉のことをさしていたのかもしれませんね。

どちらが先に読まれたのか。
そもそも本当に二人が詠んだものかという証明ができないのでアレですけれど。

もしお市が先に詠んで覚悟の程を示し、勝家がそれを了承する意味で同じ「ほととぎす」という言葉を入れて自分の辞世を詠んだとしたら……そこには単なる恋慕や夫婦関係ではない、戦国ならではの信頼と愛情があったのではないかな、と思います。

美化しすぎですかね?(´・ω・`)

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【参考】
国史大辞典
柴田勝家/wikipedia
お市の方/wikipedia

 



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