なぜお市の方は、柴田勝家と共に自害という最期を選んだのか――。
織田信長の妹であり、浅井長政の妻でもあった彼女の生涯はまさに波乱万丈。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では宮崎あおいさんが演じて可憐な女性にも見えますが、史実では嫁ぎ先の浅井家が信長を裏切って滅亡させられると、紆余曲折を経て彼女も勝家と共に果てることになります。
そんな彼女の生涯はいかなるものだったか?
なぜ生き延びる道を選ばなかったのか?

お市の方/wikimedia commons
戦国一の美女ともされるお市の方に注目してみましょう。
お市の方は生年も結婚年も不明だった
戦国時代の女性は謎多き人物が多いですが、お市の方もまた同様。
通説によると生まれは天文16年(1547年)とされていて、兄・信長の13歳下となります(信長は1534年生まれ)。
しかし両親については不確定なところがあり、本当は「信長のいとこ」だったのが輿入れの際に「信長の妹」ということにしたのではないか?という指摘もあります。
彼女の経歴が明らかになるのは、この輿入れからとなり、嫁ぎ先は前述の通り。
北近江の浅井長政です。

浅井長政/wikipediaより引用
ここで問題が一つ。
お市の方は、いつごろ長政に嫁いだのか?
実は、信長の事績を細かに示す『信長公記』にも掲載されておりません。
そのため永禄2年(1559年)から永禄11年(1568年)まで諸説が入り乱れ、長らく定まりませんでした。
しかし近年、決着がついています。
決め手となったのは【十二月十七日付 和田惟政書状】でした。
【意訳】浅井長政と織田信長の縁組がまとまったとはいえ
【原文】浅井備前守(長政)と(織田)信長、縁辺入眼し候と雖も
「縁辺入眼(えんぺんじゅがん)」とは、縁組が成立したという意味。
つまり、この書状が書かれた直前に二人は結婚していたことになります。
あとは、この書状がいつ書かれたか。
かつては永禄8年(1565年)や元亀元年(1570年)に比定されたこともありましたが、信長・足利義昭・近江六角家それぞれの動きを突き合わせた結果、現在は永禄10年(1567年)で確定とされています。
ゆえにお市の輿入れも、永禄10年(1567年)。
※かつて有力視された永禄4年説・6年説は、現在は採用されていません
そしてこの年が、なかなか絶妙なタイミングなのです。
上洛のための政略結婚が成立
お市の兄である信長は若い頃から苦労の連続です。
父・信秀から家督を継いだのが天文21年(1552年)。
その後は弟の織田信勝はじめ他の親類に幾度も裏切られながら、14年かけてようやく永禄八年(1565年)に尾張統一を果たしました。

織田信長/wikipediaより引用
同時に美濃への進出も進めていた信長は、永禄10年(1567年)に斎藤龍興を追い出して美濃を制すると、本拠地を岐阜へ移転。
問題はこの先です。
以下の地図をご覧の通り、織田信長の岐阜城から西の京都へ進むには、浅井長政の小谷城付近を通らねばなりません。
※右から岐阜城(黄)、小谷城(紫)、六角氏の観音寺城(赤)、御所(黄)
尾張と美濃を有する信長にとって、北近江だけを領国とする浅井氏は、国力で見れば格下です。
しかしその北には浅井の同盟相手・朝倉義景がいて、真っ向から対戦すれば織田家は二国を同時に敵に回してしまう。
それよりは政略結婚で浅井と同盟を結んでしまった方が早い。
お市の方は、そうして浅井家に嫁ぐことになったのでした。
仲睦まじい二人 長政とお市
幸いお市の方は、嫁ぎ先の浅井長政とは仲睦まじい関係だったと思われます。
というのも、永禄10年(1567年)に嫁いだ2年後に茶々(淀殿)を産むと、そこから2年おきに娘を出産しているのです。
俗に【浅井三姉妹】と呼ばれる女性たちで、いずれも名だたる武将たちに嫁いでいます。

左からお江(崇源院)・茶々(淀殿)・初(常高院)/wikipediaより引用
この三姉妹の生年も、かつては史料によってバラバラでした。
決着をつけた手がかりが2つあります。
一つは、茶々の生年が星座の記録から永禄12年(1569年)と判明したこと。
もう一つが『渓心院文(けいしんいんのふみ)』です。
北庄城を出るときの三姉妹の年齢を「十三、十一、九」と記していて、3人が2歳違いだと分かる。
ここから初は元亀2年(1571年)、江は天正元年(1573年)と確定されました。
※『渓心院文』の数字そのものは2歳ずつズレていますが、姉妹の年齢差のほうは正確でした
実際、お市の方と浅井長政は互いに愛し合っていたようで、後に長政が信長と戦争状態に陥ったときも、
長政「信長公のもとへ帰れ」
お市「ならば、ここで殺しておくれ」
なんてヤリトリがあったとも伝わります。
小豆袋の話はウソだけど……
お市の輿入れによる同盟が功を奏したのでしょう。
織田信長は永禄11年(1568年)に将軍・義昭を奉じての上洛に成功。
これにて織田と浅井の両国もより一層結びつきは固くなるはずでしたが、友好関係は長くは続きませんでした。
2年後の元亀元年(1570年)、突如、織田軍が越前の朝倉へ攻め込んだからです。
前述の通り浅井と朝倉は同盟を結んでいます。その関係を無視したまま信長が朝倉を攻撃すれば、浅井としては立つ瀬がない。
ゆえに越前攻めはしない――という方針でしたが、信長はこれを破って朝倉方の天筒山城を落城させると、次に金ヶ崎城を秀吉の調略で開城させ、更に北へ進軍……このとき事態が勃発しました。
浅井長政が信長を裏切り、挙兵したのです。
信長の背後に襲いかかり、浅井と朝倉で織田軍を挟み撃ちにする作戦でした。
このときお市の方は兄・信長へ【両端を縛った小豆袋】を送り、織田軍が「挟撃に遭う」ということを暗に知らせたと言います。
面白い話ですが、こちらは後世の創作でしょう。
ともかく絶体絶命に陥った信長は、金ヶ崎から大慌てで逃げ出し、どうにか事なきを得ました。
なお、このとき豊臣秀吉と並んで織田軍の殿(しんがり・最後尾で敵を引きつける役)を担ったのが明智光秀たちです。

明智光秀(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用
浅井家の裏切りは、いわば秀吉と光秀を出世させた契機であり、この撤退戦は【金ヶ崎の退き口】として後世に知られます。
歴史にIFは禁物ながら、もし浅井長政が裏切りなどしていなかったら、織田政権での長政は秀吉や光秀より上のランクにいた可能性が高そうですよね。
夫と兄が血みどろの戦いを繰り広げ
夫の裏切りにより兄がピンチに陥り、結果、両家が激突――。
お市の方としては非常に苦しい立場に置かれましたが、この後も長政との間に次女(初)と三女(江)を産んでますので、二人の仲は崩れなかった模様です。
ただ……厳しい日々だったことは間違いないでしょう。
元亀元年(1570年)に【姉川の戦い】が勃発してから天正元年(1573年)まで。
織田と浅井は血みどろの戦いを幾度も繰り返し、ついに浅井家が滅ぼされてしまったのです。

浅井家の本拠地である小谷城跡に建てられた小谷城址碑
前述の通り、夫の長政から「信長公のもとへ戻れ」とされていたお市の方(と浅井三姉妹)は、ついにその言を受け入れ浅井家から織田家に出戻り。
問題は、10歳の長男・浅井万福丸でした。
合戦の混乱にまぎれて小谷城から脱出を果たしていたのですが、程なくして秀吉に捕らえられると、串刺しにされてしまっています。
※処刑地は『信長公記』が関ヶ原としており、9月2日に秀吉が木之本で殺害したという説もあります
なお、この万福丸はお市の方の子ではありません。
『信長公記』天正元年条に「十歳」と記されているため、生まれは永禄7年(1564年)。
お市の輿入れが永禄10年(1567年)ですから、結婚より前に生まれた計算になります。
かつては「お市の実子ではないか?」という見方もありましたが、それは輿入れの年が定まっていなかったからで、いまは庶出とみて間違いありません。
同じ母から生まれた弟が、成人することなく処刑されたわけではない――そう考えると、三姉妹が助命された事情も少し見えてきます。
ちなみに長政には、お市の方と結婚する前に「平井定武の娘」と結婚していた経歴があり、さらには妾もいて、最大で4人の男児をもうけていた可能性も指摘されております。
長政の男児
・万福丸
・喜八郎
・円寿丸
・万寿丸
妻はお市の方だけ――そんなイメージもあっただけに意外ですね。
まぁ、男児が生まれてこないと浅井家の存続にかかわりますので、妾を迎えるのも自然なことだとは思います。
織田家に出戻りしていたら突然の本能寺
夫を殺され織田家に出戻りしたお市の方(と三姉妹)。
その後の彼女らはどうしたか?
実はこれも詳細は不明で
◆清洲城主だった織田信忠に預けられた
◆上野城主(伊勢国)だった織田信包(信長の弟)に預けられた
といった諸説あります。
ただ、天下人・信長の妹(と姪っ子)だけに、不自由のない生活だったことは間違いないでしょう。
再嫁しないまま10年近くを過ごしています。
すでに彼女には3人の娘がいましたし、これ以上、子供を産む必要がないと思ったか、亡き長政への愛なのか。
あるいは他家に嫁いで、これ以上、戦乱に巻き込まれるのがイヤだったか。
いずれにせよ織田信長という稀代の人物の妹として、平穏な道を歩むことは許されません。
天正10年(1582年)6月、【本能寺の変】が起きたのです。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
このときお市の方たちがどこにいたのかは不明です。
おそらく尾張か伊勢だったのでしょう。頼るべき兄を突如殺され、状況次第では自身や娘たちの身も危うい局面。
混乱する織田家の状況を一変させたのは豊臣秀吉でした。
毛利勢との和解を果たし、備中高松城から京都までやってくると【山崎の戦い】で明智光秀を打ち破ったのです。
他の織田家武将たちが右往左往している中、光秀のクーデターを鎮圧。
次に迎えたのが清須会議。
お市の方の運命を変えるイベントでした。
清須会議は秀吉の一方的勝利ではない!?
天正10年(1582年)6月27日に開かれたこの会議で、中心になった織田家の重臣は以下の通り。
清須会議
関東に出兵していた滝川一益は参加不可能と判断され、上記4名の主導で話し合いが持たれました。
会議の議題は主に以下の二点です。
・次の織田家当主「三法師」の名代を織田信雄と織田信孝のどちらにするか?
・残された所領をどう分配するか?
一般的によく知られる清須会議は、織田家の跡取りを誰にするか?という内容ですね。
しかし、すでに信長から織田家の家督を譲られていた織田信忠に息子の三法師がいたため、跡取りは三法師で決まり。
その補佐となる名代を織田信雄と織田信孝のどちらにするか?というものだったのでした。
織田信忠も本能寺の変で討たれていたため、その弟たちである信雄と信孝で名代を争ったのです。
単純に秀吉勝利!という会議ではありません。

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用
結局、名代は決まりませんでした。
信雄でも信孝でもなく、会議に集まった宿老四人の合議で三法師を支える形に落ち着いたのです。
※信長の側近だった堀秀政は、三法師の傅役(もりやく・養育係)として近江に20万石の直轄地を任されています
そして、この清須会議でもう一つ決まっていたことがあります。
お市の方と柴田勝家の結婚です。
再婚は清須会議の取り決めだった
お市の方と勝家の結婚について、当時の史料はたった一通しか残っていません。
天正10年(1582年)10月6日付で、勝家が堀秀政に宛てた覚書です。
【意訳】一つ、羽柴秀吉と申し合わせた筋目に、相違はないこと。付け加えて、縁組の件も、いよいよそのとおりである。
【原文】一つ、羽筑と申し合わす筋目、相違無き事、付けたり、縁辺の儀、弥其の分に候
この覚書は、清須会議での申し合わせがどこまで進んだかを報告したもの。
その一条目が「秀吉との取り決めに変更なし」で、その付け足しとして「縁辺の儀(=結婚)も予定どおり」と書かれているわけです。
つまりお市の方の再婚は、清須会議の席で秀吉と勝家の間に取り決められていた。
信孝が口利きをした、という話も伝わってはいるのですが、こちらは『川角太閤記』が伝えるもので、しかも「信長の生前に、信孝が信長へ進言した」という形の話。
そもそも勝家と信孝が結びつくのは清須会議より後、秀吉の専横が目立ってきてからのことで、それ以前に深い接点があったとは考えにくいのです。
再婚とセットで動いた「長浜」
興味深いのは、この結婚と同時に、もう一つの取り決めがなされていることです。
秀吉の領国だった長浜が、勝家に引き渡されました。
長浜とは、かつての浅井家の旧領。
お市の方は北庄へ移ったあとも「小谷の御方」と呼ばれ続けています。
つまり旧浅井領を名目上受け継ぐ存在として、お市の方が認識されていたのではないか——というのが黒田基樹氏の見立てです。
※お市の方と勝家の結婚、そして勝家の長浜領有は、一体のものだったとみられています
結婚の時期は、9月11日以前で確実。
この日、お市の方は勝家の妻という立場で、信長の百日忌法要を主催しているからです。
清須会議の申し合わせが実行に移り始めるのが8月初め頃ですから、7月中には結ばれていた可能性が高いでしょう。
北庄城で過ごした最後の冬
いくら年の差婚が当たり前の時代とはいえ、娘と考えたって不思議はない年齢差。
しかも織田家のドタバタの真っ最中です。
ところが意外なことに、二人には一緒に過ごす時間がありました。
秀吉との対立が深まっていく天正10年の冬。
勝家は雪に閉ざされた越前から動くことができず、養子の勝豊が秀吉に降ることも、岐阜城の信孝が追い詰められることも、ただ見ているしかありませんでした。
裏を返せば、勝家が北庄城を発つのは、雪が解けた翌年2月6日。
お市の方が北庄へ入ったのが9月以前ですから、二人はおよそ5ヶ月を同じ城で過ごしたことになります。
そして雪解けとともに勝家は出陣し、【賤ヶ岳の戦い】で秀吉と真っ向からぶつかるのです。
賤ヶ岳から北ノ庄城まで約110km
賤ヶ岳の戦いとは、どんな合戦だったか?
結論だけ申しますと、佐久間盛政の突撃で戦線が動き、さらに前田利家の戦線離脱で秀吉が勝利を得ました。

前田利家/wikipediaより引用
当初、利家は柴田軍の一翼を担っていたので、結果として柴田方を離れ、秀吉方に傾いたのです。
豊臣秀吉と柴田勝家が織田家の後継を巡って直接ぶつかった――賤ヶ岳の戦いは、前田利家の戦線離脱などもあり秀吉の勝利となりました。
合戦に敗れた勝家は本拠地・北ノ庄城へ帰ってきました。
現在の福井城ですね。
この城は、賤ヶ岳から現在の道路で110km程度しか離れておらず、すぐに秀吉もやってきて包囲戦が始まります。

現在は福井城として知られる北庄城(北ノ庄城)
先鋒は突如戦線を離脱した後、秀吉方についていた前田利家。
他にも黒田官兵衛など賤ヶ岳とその付近で功を挙げた武将たちがたくさんいました。
24日の午前4時ごろに秀吉方が総攻撃を開始すると、午前9時ごろに勝家とお市が自害。最後まで残った家臣たちも後を追い、午後3時ごろまでに全員が果てたといわれています。
お市には、逃げるようにすすめていた!?
柴田勝家は、北ノ庄城へ帰ってからお市に「逃げよ」と勧めたといわれています。
しかし、お市自身が「二度も逃げたくない」といって拒否。
勝家と自害する道を選んだのですが、勝家としては「愛する女性に生き延びてほしい」というより「まだ若いし、これからが大事な娘たちもいるから、母親がいなければダメだ」と思ったのではないでしょうか。
愛する妻を見る目というより、大切な元主君の妹という風に思えてきます。
お市が自害を選んだ理由としては「秀吉が嫌いだったから」とか言われたりもします。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
果たしてどうでしょうか。
娘たちを直接秀吉に渡しており、単純に“嫌っていた”とは言い切れないでしょう。
本当にイヤだとしたら、何としてでも秀吉ではなく違う武将の下へ落ち延びさせたのではないでしょうか。
それに彼女自身が、小谷城落城のとき浅井長政と共に死ねなかったことを悔やんでいて、勝家に対して「私は女だが心は男性に負けない(今回はもう逃げない)」と言ったともされます。
実に強いハートの持ち主だということが浮かんできますね。
二人の辞世に同じ言葉「ほととぎす」
辞世の句からも、単なる政略結婚とか、「秀吉が嫌いだから勝家と仕方なく運命を共にした」というわけではない気がします。
二人の辞世に勝家と同じ「ほととぎす」という言葉が入っているのです。
いつも通りの意訳と共に掲載させていただきます。
◆お市
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
【意訳】「そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね」
◆勝家
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
【意訳】「夏の夜の夢のように儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我が名を雲の上へ語り伝えてくれまいか」
辞世に返歌をする、というのは度々ありますが、同じ単語を入れるというのはなかなかありません。
ほととぎすは古来からその声の美しさや「夜に鳴く」という特徴を愛でられてきた鳥で、和歌にもたくさん詠まれています。
もしかするとこの二つの辞世では、秀吉のことをさしていたのかもしれませんね。
どちらが先に詠まれたのか。
もしお市が先に詠んで覚悟の程を示し、勝家がそれを了承する意味で同じ「ほととぎす」という言葉を入れて自分の辞世を詠んだとしたら……そこには単なる恋慕や夫婦関係ではない、戦国ならではの信頼と愛情があったのではないかな、と思います。
美化しすぎですかね?
いずれにせよ織田家を思う勝家の気持ちと、お市の方の誇りには、一点の曇りもない気がします。
なお、北庄城を出た浅井三姉妹の茶々に対して秀吉が求婚したのはいつのことか?という関連記事も以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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【参考】
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国史大辞典
【TOP画像】お市の方/wikimedia commons







