元仁元年(1224年)6月13日は北条義時が亡くなった日です。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公だった彼は、史実ではどんな人物だったのか?
というと「北条政子の弟で鎌倉幕府における北条氏の立ち位置を決めた人」であり、ドラマと同じ印象ですね。
義時は初代執権・北条時政の次男。
執権とは、将軍を補佐するという名目で、北条氏が実権を握った役職でした。
最初から鎌倉幕府にあったのではなく、
政治の中枢である【政所】
御家人を管理する【侍所】
という2つの重要なお役所の【別当(長官のこと)】を独占したのです。
厄介なのが、必ずしも北条一族の中で最も偉い人(得宗家)が就くわけじゃないという点でしょう。
途中から、執権職よりも得宗家のほうが権力を持ったりしていてややこしくて……。
【ポイント】
執権=将軍の補佐と言いつつ実権No.1
↓
次第に得宗家の方が偉くなったりする
では、執権の成り立ちに北条義時はどう関係しているのか?
彼の生涯を振り返ってみましょう。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
【鎌倉幕府の執権と在任期間】
①北条時政 1203-1205年
②北条義時 1205-1224年
③北条泰時 1224-1242年
④北条経時 1242-1246年
⑤北条時頼 1246-1256年
⑥北条長時 1256-1264年
⑦北条政村 1264-1268年
⑧北条時宗 1268-1284年
⑨北条貞時 1284-1301年
⑩北条師時 1301-1311年
⑪北条宗宣 1311-1312年
⑫北条煕時 1312-1315年
⑬北条基時 1315-1316年
⑭北条高時 1316-1326年
⑮北条貞顕 1326-1326年
⑯北条守時 1326-1333年
北条義時 石橋山の戦いで史料に初登場
北条義時が記録上に初めて登場したのは、源平合戦の緒戦【石橋山の戦い】です。
ここで源頼朝がボロ負けし、父の北条時政と義時はその後を追いかけて房総半島へと渡りました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
一方、義時の兄であり時政の長男である北条宗時は別ルートで逃げています。
こういうとき、一族が二手に分かれるのはよくある話。まとまって逃げたら、もし敵の追撃を受けたとき、家ごと滅ぶことも考えられる。そのリスクを軽減するんですね。
実際、この敗走の途中で宗時が亡くなり、義時が嫡男としての地位を得ます。
義時がこの時点で戦に出られる年齢になっていたことも、彼にとっては幸運だったでしょう。
もしも兄と歳が離れていて、頼朝存命中に戦にも政務にも関われないような少年だったとしたら、後の権力も手に入れられなかったはずです。
頼朝は安房に逃げ延びた後、上総・下総・武蔵など、関東の有力武士たちを味方につけるべく、家臣たちを使者として遣わします。
このとき、北条氏は甲斐・駿河で源氏系の武士の下へ行き、協力を取り付けたようです。
詳しい記録はないものの【富士川の戦い】の直前、頼朝から甲斐の武田信義(武田信玄の祖先)に対して、
「北条殿を道案内とし、早く黄瀬川あたりに来てもらいたい」
という手紙を書いていることから、北条氏がこの方面を担当していたと考えられています。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き
黄瀬川は、頼朝と源義経が初めて対面した場所としても有名ですね。
以降、源頼朝が征夷大将軍になるまでの間、義時は父とともに側近を務めています。
逆に言えば、この時期の個人的な功績は全くといっていいほどわかりません。
【寝所近辺祗候衆】(頼朝の寝所など、非常に近いところで仕える人々)の中で、義時が筆頭として扱われていますので、頼朝の信頼を得ていたことは間違いないでしょう。
まずは関東平定
富士川で平家軍を追い返した源氏軍は、ここで即座に西上……とはなりませんでした。
頼朝に協力した関東の武士たちが「まずは関東を平らげるべき」と強く主張したからです。
ついこの前まで流人だった頼朝は、命さえあれば再起することもできます。石橋山での敗北から安房への逃亡など、既にそれは証明されていました。
しかし、既に領地を持っている千葉氏などは、頼朝ほど身軽ではありません。
この時点ではまだまだ関東にも平家方の武士がおり、長期間留守にすれば、領地や一族を失いかねませんでした。
そのため、頼朝は鎌倉を本拠として、関東平定を急ぐことになります。
義時が具体的に何かをしたという記録はありません。以前と同じように地道に日々働いて、頼朝の信頼を勝ち取っていったのでしょう。
なぜかというと、寿永3年=元暦元年(1184年)9月、頼朝の弟・源範頼が西国へ向かったときに、義時も従軍しているからです。

源範頼/wikipediaより引用
この出征は平家を直接討伐するものではなく、平家に協力的な立場だった九州の武士を源氏の勢力下に入れることが目的でした。
既に平家は都落ちしており、瀬戸内海エリアにいましたので、背後を塞ごうというわけです。
悪くいえば、とても地味な仕事。
しかも、心情的に平家寄りな人々を相手にするのですから、源氏方にとっては不利なことが多い状況ですね。
兵糧や舟の手配はもちろん、源氏に味方してくれるように説得するなど、範頼だけでなく、同行した諸将にとってもなかなか厳しい時期だったと思われます。
頼朝もそれはよくわかっていて、範頼への手紙の中で、相手を懐柔するように伝えております。
「地元の人々の恨みを買わないように振る舞え」
「地元民をなだめて、彼らにとって有利なようにはからえ」
そういった手紙の宛名の中に、義時の名も出てきています。
義時単独にあてたものではないにしろ、範頼軍の主要人物とみなされていたことは間違いなさそうです。
おそらくは、他の武将たちとともに、九州の武士を説得したり、物資の調達に走り回ったりしていたのでしょう。このあたりは想像の域を出ません。
壇ノ浦の戦いを経て
元暦二年二月にやっとその努力が実を結び、豊後や周防の人々から充分な舟や米を得ることができました。
これによって、範頼軍は動き回れるようになり、摂津から平家軍を攻める義経軍と協力して【屋島の戦い】ついで【壇ノ浦の戦い】に臨みます。
このときも華々しい逸話は義経のものでしたが、その前には源範頼や北条義時らの下準備がかかせなかったのです。

源義経/wikipediaより引用
義経が奥州藤原氏に討たれた後は、頼朝が同氏を討つ軍を起こした奥州合戦にも参加しています。
ここでも武働きはしておらず、頼朝の近侍に徹していました。
頼朝も武士というより、政治家としての面が強く感じられますが、義時はさらにその傾向が強いですね。
さらに、建久元年(1190年)に、頼朝が後白河法皇との折衝のため上洛した際には、露払いの役をしています。
細かい経緯は不明ながら、このあたりから頼朝は義時を信頼しきっていたらしく、
「義時は必ず、我が子孫を支える存在になるだろう」
と言っていたとか。
後世の我々からすると、どんな顔をしていいやら。ある意味その通りになったし、真逆になったともいえます。
頼朝が、もう少しその“信頼”を実の弟たちにも分けておけば、鎌倉幕府における源氏将軍の血が途絶えることもなかったかも……。
都で元服した頼朝ですので、摂関家が皇室に食い込む様子とか、他の公家が娘を入内させて政治的立場を強くする様子を知っていたはずです。
政治力ハンパない頼朝でしたら、自分の妻・政子を通じ、北条氏が同じことを仕掛けてくる可能性を察知できたはずでは?
なのになぜ気づかなかった?
やはり人間、自分のことは意外とわからないもんでしょうか。
頼朝の死
ただし、この時期の北条義時はあくまで頼朝に忠実です。
「頼朝が暗殺された」という前代未聞の誤報で一騒動あった富士の巻狩りにも随行していますし、当時の人心掌握に欠かせない寺社の修繕に関する仕事も、頻繁に任された時期があります。
建久六年二月の頼朝上洛でも、義時は関東の御家人の大部分と共に同行しました。

頼朝の上洛を描いた歌川貞秀『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』/国立国会図書館蔵
その帰路の途中、妹の危篤を知ります。
姉の北条政子ではなく義時の妹については、稲毛重成に嫁いでいたことくらいしかわかっていません。
しかし、義時が関東に帰るほんの数日前に亡くなっており、一ヶ月以上も義時が父・時政とともに政務から離れて喪に服していたことからすると、兄妹仲は良かったものと思われます。
また、ここから頼朝が亡くなった正治元年の年明けまで、史料上では義時の動向がわからなくなります。
『吾妻鏡』に欠損があるというのも大きな理由ですが、妹の死も何らかの影響を与えていたのかもしれません。
というのも、頼朝が亡くなる直前の外出は、この義時の妹の供養のためだったからです。
寡夫となった稲毛重成は、妻の追善供養のために相模川に橋を作りました。
落成式には、頼朝や義時も参加。
そしてその帰り道に頼朝が落馬して意識を失い、そのまま亡くなったといわれています。
言うまでもなく、頼朝の死は重大な出来事だったはずですが、その割には記録が乏しいため、暗殺説も根強く存在します。
御家人たち13人の合議制
頼朝の死後、嫡男の源頼家が二代目の将軍になりました。

源頼家/wikipediaより引用
北条義時にとっては姉の息子、つまり甥っ子にあたります。
まだ16歳と若い頼家を支えるという名目で、当時の宿老格の御家人たち十三人による合議制が生まれました。
このとき、義時もその一員に加わっています。もちろん父の時政も入っていました。
他のメンバーは以下の通り。
・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政
・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄
・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政
・北条義時
特に最初の四人は幕府創設の要ともいえる人々です。
・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政
大江広元は源氏将軍三代に渡って仕え、官位も御家人筆頭の正五位という重鎮。
息子の親広は、義時の娘婿でもあり、たびたび記録上に出てきます。
間の四人もまた、幕府の草創期に活躍した人々です。
・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄
保延四年(1138年)生まれの時政と同世代か、ややずれるくらいの年代の人が多いので、鎌倉幕府ができた頃には結構な年齢になっていました。
そのためか、いつの間にか記録から消えている人がいたり、同じような時期に相次いで亡くなったりしています。
次の四人は、デカすぎる共通点がありまして。
・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政
「この合議制ができた後、義時の主導で滅ぼされた(排除された)」というものです。
『え? 北条時政って義時の父ちゃんだよね?』と思われるかもしれませんが、この時代の武士あるあるというか、まあそれなりの経緯があります。
さすがに殺害まではしていませんが、政治家としての時政を終わらせたのは、子供である義時と政子です。
順を追って見て参りましょう。
全ては御家人のボヤキから始まった
まずは、梶原景時がその地位を追われました。
景時は義経と大ゲンカした人ということで、現代においてもあまりいいイメージがないかもしれません。
しかし、それは彼が厳格な性格であり、職務に忠実だったことの裏返し。
鎌倉幕府が始まってからの景時は、侍所という役所で御家人の統率や警察の仕事をしていました。
当時は頼朝が存命中でしたから、頼朝自身が「コイツならこの仕事を任せられる」と信頼していたのでしょう。
そういう態度を取られると、御家人たちもおとなしくせざるをえません。現代の学校でいえば学級委員や風紀委員、会社で言えば監査役、お役所ならマルサなどに近いイメージの立場です。
要するに、他の人々からすると煙たい存在なわけで……その反感は、頼朝の死によって高まる一方になりました。
そんな中で、とあるトラブルが起きました。
頼朝が亡くなって、頼家が跡を継ぎ、十三人の合議制ができた後のことです。
結城朝光という御家人が、侍所で
「武士は二君に仕えずという。頼朝様が亡くなった時、自分も出家しておけばよかった」
とボヤいたのだそうです。
これを聞いたのが義時の妹・阿波局です。
彼女は朝光に対し「この前あなたが愚痴ってたこと、景時殿にバレてしまったみたいですよ。このままだと殺されてしまうかもしれません」と告げました。
実際には、この時点で何も決まっていなかったようですが……日頃から恨まれているだけに、こういうときの悪い想像は飛躍します。
いつしか「景時はほんのちょっとのことでも許さないし、何かあれば御家人をすぐブッコロすに違いない! 皆でアイツを罷免に追い込もう!」という流れになってしまうのです。
頼朝ならば、景時が讒言したとしても、鵜呑みにすることはなかったでしょう。
しかし年若い頼家が景時の言うことを信じて、朝光を罰そうものなら、今後、似たような理由で誰が処分されるかわかりません。
もしも自分が標的にされたらたまらない!ということで、それを防ぐため66人もの御家人によって景時罷免の連判状が作られました。
共通の敵がいると、人間団結しやすいものですよね。
連判状は、まず大江広元に提出。
66人の中には、足立遠元・安達盛長・三浦義澄・和田義盛といった、十三人の合議制に参加している人も含まれています。
幕府の上から下まで、景時を恨んでいる人がまんべんなくいたわけです。
梶原景時の変
困ったのは、連判状を出された大江広元です。
実際に何かが起きたわけではないながら、これほど多くの御家人が関わっているものを、握りつぶすこともできません。
結局、広元は、あまりにも御家人たちが言い立てるので、仕方なく頼家にコトの次第を報告し、連判状を提出します。

大江広元/Wikipediaより引用
このとき、頼家は満17歳。
まだまだ若いとはいえ、当時の基準では成人として扱われる年齢です。広元も頼家を大人と見ていたからこそ、最終決定を促したのでしょう。
そして頼家は、景時本人に連判状のことを伝え「こんなものが俺のところに出されたんだけど、お前から何か弁明はあるか」と尋ねます。
頼家から見ても景時は頼もしい存在だったでしょうし、言い分があれば聞くつもりだったでしょうね。
頼家の性格についてはあまり芳しい評価が残っていないものの、この件で双方の言い分を聞こうとしているあたり、全くダメダメな人というわけでもなさそうです。
しかし、景時は「これほど多くの名で連判状が作られた=自分は皆に強く恨まれている」ことを悟ったようで……何の弁明もせず、一族をまとめて領地の相模国一宮に移ります。
「見苦しい言い訳はしませんし、事を荒立てたくはないので、謹慎します」という意思表示ですね。
それでも、御家人たちの腹の虫は収まりません。
頼家だけではかばいきれず、景時は間もなく追放の処分が決定してしまいました。
職を失ってしまっては、一族を養っていくこともできません。
気の荒い人であれば、一か八かで頼家を襲うなり、御家人の誰かと刺し違えるなり、荒っぽい方法を選んだでしょう。
景時はそうしませんでした。京に出てどこかの公家に仕えようとしたのか、西へ向かったのです。
しかし、その途上で相模の武士に襲われ、景時含む一族のほぼ全てが討たれてしまいます。
一連の事件を「梶原景時の変」といいます。
正直、景時は何も悪くないというか、イメージだけで一族が殺害されるなんて、実に気の毒な話。
北条義時らはこの件に直接関わっていない、とされています。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
しかし、コトの発端が義時の妹である阿波局だというあたりから、
「実はこのときから北条氏の陰謀が始まっていたのでは?」
とする向きもあります。
直後に、景時の口利きで御家人になった城長茂(じょう・ながもち)という人が上洛し、後鳥羽上皇に幕府追討の院宣を求めたものの失敗。
彼もまた幕府軍に討たれているのがまた、なんともキナ臭いところで……。
鎌倉時代の基本史料となる吾妻鏡は、かなり北条氏寄りの書き方をしていますので、そのあたりを差し引いて考えなければいけません。
そこがまた、この時代の難しいところです。
比企氏の乱
時期が少々前後しますが、頼朝の死・頼家が二代将軍になったあたりの時期は、御家人たちの世代交代が相次いだ頃でもありました。
正治元年(1199年)~建仁三年(1203年)の間に、
十三人の合議制に加わった人々も含め、こういった人々が亡くなっています。
北条氏の陰謀や天災、合戦などではなく寿命です。生年が不明な方も多いですが、おおむね60代後半~90歳近くだったようで。
このころ義時は40歳前後であり、当時の基準ではかなり高齢の域に近づいてきた頃合いでした。
ゆえに『自分の子孫のため政敵を残らず始末しておこう』なんて事を考えていたかもしれません。
次に滅ぼされたのは比企能員(ひきよしかず)です。
建仁三年(1203年)【比企氏の乱】によって一族まるごと終焉を迎えました。
比企氏は、頼家の妻・若狭局の実家です。
頼家は、合議制ができる前から、将軍としての実権を奪われつつあったため、母の実家である北条氏より、比企氏に接近していました。
また、若狭局が息子を産んだことで、比企氏が次期将軍の後ろ盾になる可能性が出てきたことも、北条氏に目をつけられた理由の一つだと思われます。
時政と義時は、比企氏の力が強大になる前に、手を打つことにした……というわけですね。まぁ、比企氏側の武士が政子の住まいを襲ったりしているので、どっちもどっちなんですが。
手荒なことをしてもしなくても物騒な結末になるというのは、中世のこととはいえ酷い話です。
なんでも、義時の父・時政が
「ちょっと政務上で相談したいこともあるし、以前から考えていた仏像供養を行うついでに、我が家へきてもらえないか」
と、能員にもちかけたのだそうです。

北条時政/wikipediaより引用
政敵の招待ですから、当然、比企氏の関係者たちは警戒。
「普段から親密に相談をしているわけでもないのに、怪しすぎます。行かないほうがいいのではありませんか?どうしても行くというのなら、警護の兵を充分に用意していくべきです」
主君にそう勧めましたが、能員は反対します。
「そんなことをすれば、かえって疑いが深くなる。仏事のこともあるし、本当に政務の相談をしたいのかもしれないから、平服で行ってこちらの誠意を示すべきだろう」
あまりにも潔すぎる態度ですよね。
かくして僅かな供を連れ、ほぼ丸腰で出かけた比企能員は、案の定、時政邸で取り押さえられ、命を落としてしまいました。
命からがら逃げ帰った供の一人がこのことを比企氏の人々に伝え、一族揃って抵抗しようとした矢先に義時らに攻め込まれ、滅びてしまうのです。
これを【比企能員の変】とか【比企の乱】と呼んでいるのですが、先に動いたのは北条氏であり奇妙な呼び方に感じますね。
わずかに逃げ延びた比企氏の面々も、追討で殺されるか、流刑に遭うか。
いずれにせよ表舞台を去ることになりました。
このとき、母が比企氏出身だったとされる島津忠久も連座して、大隅・薩摩・日向の守護職を取り上げられています。

島津氏の祖である島津忠久/wikipediaより引用
彼は比企氏の政治的活動に深く関わっていたわけではなかったようで、数年で政治に戻ってきていますが。
名字からもわかる通り、島津忠久は戦国大名島津氏の祖先にあたる人物です。
もしも彼が比企氏一族と行動を共にしていたら、この乱のときに討たれ、後の島津氏も薩摩藩もなかったのかもしれません。
畠山重忠の乱
こうしてまた一人、政敵を葬った北条氏。
将軍・源頼家はこのころ病床に伏しており、やっと快方に向かいかけていたところでした。
そんなときに妻の実家が滅んだと聞かされたのですから、怒りも悲しみも倍増!
和田義盛や仁田忠常に命じて時政を討とうとしますが、義盛はこれを拒否するだけでなく、時政にリークしてしまいます。
忠常のほうは即座に武力行使しようとはせず、時政邸を訪問したようで。
しかし帰りが遅くなってしまい、それを「うちの殿も時政の奴に殺されたのでは」と勘違いした一族の者が、先に報復として義時邸へ襲いかかりました。
幸い、義時は政子の住まいである大御所へ出かけていたので大事ありませんでしたが、北条氏にとっては仁田氏を討伐する口実になりました。
結局、仁田氏も北条氏に攻められて滅んでいます。
忠常は帰り道でこの事件を知り、腹を決めて大御所に向かったところを誅殺。

多くの御家人並ぶ場でもかなり頼朝に近い席次の仁田忠常/国立国会図書館蔵
北条氏にとって障害になりうる人物が、一人ずつ消されていった感がありますが、どこまでが計画や陰謀によるものなのか……史料上ではわかりません。
偶然起きたことに対し、北条氏が間髪を入れずに動いたという可能性も、なくはないですよね。それはそれで、抜け目がなさすぎて恐ろしい話ですが。
ともあれ、北条氏は後ろ盾を失った頼家を追放して将軍位を奪い(後に暗殺)、弟の源実朝に跡を継がせます。
実朝は、この時点でまだ12歳の若年。
当然、実権を握るのは北条氏です。
時政はその立場を盤石にするべく、次は畠山重忠を討とうとしました。
ところが、重忠に対しては、そう簡単にはいきません。
日頃から清廉潔白な武士だったため、特に追い詰める理由がないのです。
そうなれば困るのは義時のほう。今後を考えれば、周囲の人望も厚い重忠を殺して敵を増やすより、味方にしておいた方が得なのですから。
義時個人としては重忠を討ち取る気はなかったようです。
しかし義時は結局、父・時政の命に抵抗できず、武蔵国二俣川で重忠を討ちます……。

坂東武士の鑑と称された畠山重忠(月岡芳年画「芳年武者无類」/wikipediaより引用)
そして重忠を討った後、黒幕が時政の後妻“牧の方”であることが判明しました。義時にとっては継母ですね。
「継母」の時点でイヤな予感がするのは、白雪姫やらの童話のせいでしょうか(白雪姫の原典では実母だったそうですが)。
牧の方と時政の間には何人か子供がいて、その娘の一人が、御家人の平賀朝雅という人に嫁いでいます。朝雅は、牧の方にとって信用できる存在だったようです。
そんな朝雅が、あるとき酒席で重忠の息子である畠山重保と口論となりました。
朝雅はそれを恨んで牧の方にチクり、それを真に受けた牧の方がさらに時政にチクり、畠山重忠討伐という流れになった……といわれています。
口論の原因は、源実朝の御台所(正室)に関することだったそうで……正直、私怨にしか見えません。
父の時政も失脚へ
一方、背景に牧の方がいた……と知って、大きな衝撃を受けたのが義時です。
大して意味のない理由で、今後の幕府を支えたであろう有能な武士を、むざむざ討ってしまったのですから。
しかも直接手を下したのは自分であり、自責の念もあったことでしょう。
そこで義時は、事件に関係した御家人を誅殺し、時政の動向を注視しました。
すると、牧の方を中心として、源実朝の暗殺計画が立てられていることが発覚します。

源実朝/Wikipediaより引用
義時は実朝暗殺計画をその母・政子に伝え、実朝を自分の屋敷に保護し、さらには御家人を集めて警備を万全とします。
暗殺は無事に防がれ、かくして時政は失脚。
頭を丸めて、地元の伊豆・北条の地で隠居生活となりました。
時政が政治からいなくなると、北条政子と義時が実朝を庇護し、他の御家人が彼らに仕えるというカタチになります。
しかし、政務を司る政所のトップだった義時は、次第に独裁的になっていくのです。
他の御家人たちにとっては当然大きな脅威となり、義時が政治のトップになった直後、
「下野の宇都宮頼綱が謀反を起こし、一族郎党を率いて鎌倉を襲おうとしている」
という噂が出ました。
義時は、政子や大江広元・安達景盛らと(一応)相談した上で、小山朝政に宇都宮氏追討を命じます。
しかし、その朝政が、直ちに従おうとしません。宇都宮頼綱が、かつて小山氏に養子入りしていたことがあり、朝政とは義兄弟の関係にあったからです。

宇都宮頼綱/wikipediaより引用
その上で、朝政は「もしも本当に頼綱が鎌倉を攻めてきたら、力の限りお守りします」と約束し、なんとかその場を丸く収めました。
同時に、頼綱にも謀反を疑われていることが知らされたと思われます。
頼綱から義時宛に「私は謀反を起こそうとはしていません」という手紙が出されており、さらにその後、出家しているからです。
それでもまだ念が足りないと感じたのか、頼綱はわざわざ鎌倉までやってきて、義時に直接詫びようとしました。
義時は疑念を消せなかったのか。このとき頼綱に会わなかったそうです。
自分の父親が似たような手段で比企能員を暗殺し、そのまま比企氏を滅ぼしていますから、警戒したのかもしれませんね。
義時の権力強化
さらに北条義時は、自らの独裁性を強めるため、あれこれやろうと動き出します。
まず守護の終身制をやめて定期交代制にし、他氏の力を削ごうとしました。
さすがに、千葉氏や三浦氏など、頼朝以前の時代から関東に根付いていた家によって大反対に遭い、実現していません。
また、別の機会には、将軍・実朝に対して「私の家臣を御家人として扱うようにしてくれませんか」と持ちかけたこともありました。
実朝にとって、義時の家臣は陪臣にあたります。
そんな彼らを【御家人=将軍の直臣】にするとなると、義時の立場が将軍同然になるわけで承諾できません。実朝自身の意志というよりは、母・政子や大江広元の意見が強かったのでしょう。
一連の義時の動きに対し、他の幕府重鎮たちが警戒を強める中、新たなターゲットになったのが和田義盛です。

和田義盛/Wikipediaより引用
それまで和田義盛は、北条氏に協力的でした。
しかし、泉親衡(いずみ ちかひら)という御家人が源頼家の遺児を担ぎ上げて北条氏に対抗しようとし、その計画が実行前にバレてしまいます。
これに義盛の息子と甥も関係していたことが明るみに出て、義時に睨まれてしまったのです。
結果、息子は許されました。
ただし、甥の和田胤長は深く関与していたとみなされ、一族が居並ぶ中で縄をかけられるという恥辱を受けさせられます。
さらに胤長の屋敷も別の御家人に下げ渡されてしまいました。
度重なる屈辱に対し、いよいよ和田義盛も我慢ができなくなっていくのです。
和田合戦
挑発――とも取れるような義時の行動に対し、義盛は密かに挙兵を決意。
しかし、そのような噂が流れてしまい、源実朝から糾弾の使者が立てられました。
義盛はもちろん、実朝に逆らう気は毛頭ありません。
「義時殿があまりにも酷いので、詳しい話をしたいだけです」
そんな返事で対応し、さらに義盛は、本家筋にあたり、イトコでもある三浦義村に事の次第と挙兵の意思を伝えました。
血縁があるからには、味方してくれると考えたのでしょう。
しかし、です。
なんと義村は、義盛の挙兵を義時にリークしてしまうのです。
そのため義盛が鎌倉で挙兵したとき、北条義時方には援軍が続々と到着。
予想外の展開に苦しみながらも、義盛軍は果敢に戦いました。一時は義盛軍のほうが優勢だったとまでいわれるほどです。
とはいえ、それにも限界がやってきます。
徐々に追い詰められた義盛軍は鎌倉の南にある由比ヶ浜まで退き、そこで敗れ去ります。

和田一族は鎌倉の海「由比ヶ浜」へ
このときの最期は、実に哀しいものでした。
義盛の軍は血筋の近い者を中心としていましたから、劣勢になった時は当然、一族が次々に討たれていったわけですが……。
その中には義盛の愛息子・和田義直もいたのです。
彼の死に声を上げて悲しんでいるところを、義盛も討ち取られたのだ……といわれています。
これまで幕府のために頑張ってきた。
にもかかわらず、将軍の親族というだけのワンマン義時に追い詰められ、味方になってくれると思っていた人に裏切られ、ほんのわずかの間とはいえ息子に先立たれて自らも討ち取られる――義盛はまさに世の中の不幸を凝縮したかのような晩年でした。
侍所の別当で地位盤石
和田義盛の乱こと【和田合戦】に勝利したことで、義盛が務めていた侍所別当の地位も、北条義時のものになりました。
その体制は、まさに盤石。
政治と警察の両方が義時の手中に収まったのです。
おそらく現代でも、この二つを押さえればなんでもできるでしょう。というか武士ですから軍事力も合わせて三つの権力ですね。
義時は官位もガンガン上がり、最終的には父・時政が受けていた【従五位下・遠江守】を超え、【従四位下・右京権大夫兼陸奥守】にまでなりました。
それまで御家人で一番官位が高かったのは【大江広元の正五位】。
もはや武士も朝廷も、誰も義時を止められなくなってしまったのです。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
ドコを切り取っても真っ黒な義時。
その最たる一件が、建保七年(1219年)の年明けに起こります。
源実朝の暗殺事件です。
詳しくは、以下、公暁の記事にありますので、ここでは簡単に触れますね。
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なぜ公暁は叔父の実朝を暗殺した? 背景に義時の陰謀というのは本当か
続きを見る
前年の末、実朝は右大臣に任官され、1月27日に鶴岡八幡宮を拝賀(神仏にお礼を述べること)しました。
雪が二尺(約60cm)も降り積もるような、厳寒の中だったといいます。
拝賀を終えて実朝が退出しようとしたそのとき、階段横の大銀杏から
「親の仇を討つ!!」
と叫びながら、何者かが実朝に切りかかりました。
亡き頼家の子・公暁、実朝にとっての甥です。

公暁(月岡芳年『美談武者八景_鶴岡の幕雪/wikipediaより引用
このとき、本当は義時が源実朝の御剣奉持(太刀を持つ)の役をするはずでしたが、急病によって源仲章にその役を譲り、自邸へ。
おかげで難を逃れたですが、あまりにもタイミング良すぎて怪しいにも程があるというか。
義時と役目を交代した仲章は実朝同様に斬られていて、これで何も関係してなかったとしたら、そっちのほうがスゴイ話ですよね。
将軍の座を狙う源氏一族
ともかく、実朝の死によって源氏の直系が絶えてしまい、血筋の近い人々が、将軍の座を狙って策動し始めました。
源氏の一族である阿野時元
頼家の遺子である禅暁
などです。
時元は、源頼朝の異母弟である阿野全成の四男です。
頼家や実朝のイトコですから、当然将軍になることは不可能ではありません。
しかし、その血筋の近さを義時が見逃すはずもありません。
京都で出家していた禅暁は、実朝暗殺の実行犯である公暁と兄弟だったことから関与を疑われ、誅殺されてしまいました。
義時としては皇族を将軍に迎えたかったようですが、朝廷に断られ、九条家から藤原頼経(当時1歳)を摂家将軍として迎えることになります。

藤原頼経/wikipediaより引用
頼経は頼朝の異母妹の血を引いているので、一応正当性もありました。
表向きとしては「源氏の血を引く高貴な方をお迎えした」ということにすればいいわけですしね。ゲスい。
しかし、幕府と朝廷の関係は悪化してしまいます。
もしかすると、この時点で朝廷としては
「頼朝の直系が絶えたら、幕府が存続する意味もない。北条氏は何かと増長してるし、もう潰してもよくない?」
といった考えがあったのかもしれません。
義時もその空気を察したのか、伊賀光季を京都守護として派遣し、治安維持と朝廷の監視をさせています。
その後、さらなる念押しとして、大江親広も上洛させていました。
承久の乱
一方、後鳥羽上皇のもとでは倒幕計画が着々と進められます。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
義時に対して調伏(敵を倒すために神仏に祈祷すること)までしていたそうですから、本気っぷりがうかがえるというものです。
当時は神仏や祈祷の力が信じられていましたから、このときも鬼気迫る勢いで調伏が行われたことでしょう。
そしてついに、京都近隣の武士や僧兵を召集&蜂起して、伊賀光季を討ちます。
同時に【北条義時追討の宣旨】を発して、討幕の軍を起こしました。
【承久の乱】の始まりです。
相手が官軍――という事態は武士たちの動揺を引き起こし、義時も、御家人たちの動向を心配していたようです。
しかし、ここで北条政子が

絵・小久ヒロ
土俵際のすさまじい粘りを見せます。
「アナタたち、頼朝公の恩義はどうなりました! 忘れたとは言わせませんよ!」
政子の逸話として、現代でも非常に有名な大演説ですね。
もっともこれは『吾妻鏡』の話であり、政子が本当に啖呵を切ったかどうかはわかりません。彼女が強い意志を見せることによって、御家人たちが腹を決めた……という大まかな流れは事実でしょう。
かくして、三浦義村以下、有力御家人のほとんどが幕府への忠誠を誓い、幕府側は一致団結して反撃態勢を整えることができました。
また、このときの大義名分として
「院(後鳥羽上皇)ではなく、そのお側に巣食う悪臣どもを討つのだ」
としていたようです。
時代が前後しますが、関ヶ原の戦いが「豊臣vs徳川の戦い」ではなく、石田三成と徳川家康がお互いに「秀頼様のためにならないアイツを討つ」という大義名分を掲げていたことと似ていますね。
あくまで、悪いのはトップではなくて君側の奸というわけです。
承久の乱の際、義時からは嫡子・北条泰時と次男・北条朝時、ならびに弟の時房が派遣されました。

北条泰時/wikipediaより引用
歴史物語『増鏡』では、泰時が「もしも、院ご自身が兵を率いて来られたら、どうするべきでしょうか」と尋ね、義時はこう答えたと伝えます。
「それを問うとは賢い子よ。もちろん、御輿に弓を引くことがあってはならない。
万が一そのようなことになったら、大人しく兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ひとえに頭を下げ、沙汰を乞うべきだ。
だが院のご出馬がなく、兵を差し向けられているだけの間は、たとえ千の味方が一人になろうとも戦い続けよ」
※意訳です
増鏡は南北朝時代の公家によって書かれたものとされていますので、少々信憑性には欠けますが、さすがの義時も天皇や上皇を討ち果たせとは命じていなかったでしょう。
そもそも幕府や征夷大将軍の存在は、天皇が認めたからこそ成り立ちます。
となれば執権である義時の立場も似たようなもの。自分で自分の権力の根源を否定するなど、賢愚以前の問題になってしまいますね。
一ヶ月半ほどで京都を制圧
総計十九万※にもなる幕府軍は、三手に分かれて西へ向かい、快進撃を続けます。
※史料による誇張であり、推測で幕府1~2万に対し、朝廷は1700騎程と目される
そして一ヶ月半ほどで京都を制圧するという完勝を収めました。
あまりにもあっさり勝ててしまったためか。
このときの幕府軍の将兵はかなりの狼藉を働いてしまったようで『承久記』にこう記されています。
「反動の兵たちが、京都のありとあらゆるところから乱入してきた。京の人々は三公から雲客・遊女以下に至るまで、声を立て泣き叫びたち迷った」
「保元の乱や平家の都落ちのときでさえ、これほどの混乱ではなかっただろう」
「院の命で立ち向かった者、ただ見物に出てきた者を問わず、坂東の兵に追い詰められていく様は、鷹の前の小鳥のようだった。射殺し、斬り殺し、首を取る者幾千、坂東の兵の中で、首を取らない者はいなかった」

平安京/wikipediaより引用
京都にいた人々にとって、幕府軍がいかに恐ろしく思えたかが伝わる、生々しい文章ですよね。
いずれにせよ、承久の乱で幕府は完全勝利。
義時が最高権力者となり、朝廷よりも優位であることが確定しました。
その流れに乗って義時は、皇室・公家の監視を務める【六波羅探題】を設置します。
朝廷からすれば、首輪をつけられたようなものです。
その代わり……というのも微妙ですが、承久の乱での処罰は、あまり厳しくしていませんでした。
首謀者とみなされた後鳥羽上皇や順徳上皇、そしてその近臣たち数名と、御家人のうち上皇サイドについた者だけです(近臣たちは鎌倉への護送途中で誅殺され、寛大ともいい切れませんが)。
後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に流罪となりました。
さすがの義時も、この両名の処刑はできなかったようです。
一方で、乱に直接関与していなかった土御門上皇(後鳥羽上皇の長男で、順徳上皇の兄)には、かなり気を使った節があります。
なぜかというと、土御門上皇は
「父も弟も流されていくというのに、私だけ京でのうのうと暮らせるものか」
といって、自ら流罪を申し出たからです。
幕府方でもあまりの律儀さに困りながら、古来より都との往来があった土佐に土御門上皇を流します。
しかし、元々罪がないことなどから、後にもっと都に近い阿波へ移し、新たに上皇のための御殿を建てるなど、優遇していたようです。
乱から3年後に急死
承久の乱が終わった後――。
義時は新たに任じた地頭たちを通じて、全国における幕府の支配をより強固なものにしようとしていました。
上皇方だった公家や武士の領地を没収し、御家人達に与えていったため、主に関東以外の土地が対象です。
しかし、ここで新たな問題が発生します。
人間、突然エラくなれば増長するもので、新たに地頭となった武士たちが、幕府の権力を傘に着て、地元民とトラブルを起こすようになっていくのです。
当然その訴えは幕府に届くわけで、義時らもその応対でてんやわんやした時期があったことでしょう。
そこで幕府は、承久の乱の翌年(貞応元年=1222年)に地頭の職務や近隣との付き合い方を条文としてまとめ、これを厳守するよう命じました。
年貢や税に関する取り決めを次々と出し、なんとか訴訟を減らしていきます。
義時自身は、承久の乱の3年後に急死しました。享年62。
表向きは脚気衝心(脚気の進行による心不全)とされていますし、亡くなるその日に出家していたようなので、前々から徴候があったのでしょう。
一方、京都では「後妻の伊賀の方に毒殺された」という噂が立ったとか。
また、近習に刺されたという説もあったようです。
まあ、これだけいろいろやっていれば、どんな死因であってもおかしくはないというか、畳の上で死ねるほうが珍しいというか……。
これだけ真っ黒い人が独裁状態を布いていると、次代にさぞ累が及びそうですが、意外にもそうはなりませんでした。
北条泰時が非常に出来た人物だったからです。
気になる方は、以下にある記事を併せてご覧ください。
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【参考】
国史大辞典
安田 元久『北条義時 (人物叢書)』(→amazon)
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)





