源平・鎌倉・室町

栄華を極めた平清盛の手腕|各地で蜂起する源氏の軍勢にはどう対処した?

2025/02/03

治承5年(1181年)閏2月4日は平清盛の命日です。

頭がツルツルで、なんだか豪快。

「喝っ!」の一言でも発しそうで、間違っても上司にしたくない――。

そんなコワモテな人物像が浮かんできそうで、実際、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で松平健さんが演じる清盛も、いかにも大物政治家といった風格がありました。

しかし、それはあくまで彼の一面ではないでしょうか。

史実の清盛は、権力を振りかざす人物ではなく、人心の機微を捉え、バランスよく振る舞うことができた有能な政治家あるいは経営者に思えてきます。

父や祖父、曽祖父の代からコツコツと、一族全体で積み上げてきたようにも感じるのです。

ではなぜ、そうして得た繁栄を、一瞬にして失ってしまったのか?

本稿では、まず清盛の出身家である伊勢平氏を確認しながら、彼の生涯も振り返ってみましょう。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用

 


平清盛は伊勢平氏の出身

平清盛の出身である伊勢平氏は、桓武天皇の流れを汲む桓武平氏の一支流。

系図としては以下の通りです。

桓武天皇

葛原親王

高望王(平高望)

平国香

貞盛

維衡

正衡

正盛

忠盛

清盛

よく見ると、”平将門と敵対した平国香の子孫”になりますね。

将門や国香の戦いは関東で起きましたが、伊勢平氏はその名の通り伊勢周辺を基盤とする一族です。

なぜそうなったのか?

実はシンプルな話で、清盛のご先祖様たちが、清和源氏の下につくことを嫌がったからです。

では、なぜ源氏を嫌ったのか?

原因は【前九年の役】と【後三年の役】にあります。

『前九年合戦絵巻』鎮守府将軍の源頼義と、その息子・源義家が共に参戦/国立国会図書館蔵

上記の戦いで大きく株を上げ、関東武士の支持を得たのが河内源氏(頼朝や武田もこの一派)。

とはいえ、全ての関東武士が河内源氏の傘下に収まるのではなく、反発した勢力もあり、その一例が伊勢平氏でした。

彼らは近畿へ移り、別の方法で権威を得ようと考えます。

具体的な行動に出たのが、清盛の祖父・平正盛でした。

正盛は伊賀の領地を白河法皇に献上し、北面の武士(上皇・法皇の御所の警備係)となって、地位を少しずつ上げていったのです。

具体的に何をしたか?

というと、例えば河内源氏の源義親を討伐しています。

他にも、強盗の追捕や京都周辺の治安維持などでたびたび功績を挙げ、堅実に評判を上げていきました。

そのお陰か、正盛の子・平忠盛は播磨・伊勢の国守となるなどして、伊勢平氏は京都に近い土地で基盤を築いていくのです。

 


12歳でいきなり貴族の仲間入り

そんな状況で、生まれたのが平清盛です。

永久六年(1118年)1月18日が生誕日で、その母は、白河法皇の寵妃・祇園女御の妹だとされています。

祇園女御は正式な女御宣下がなくても白河法皇の寵愛が深く、強い権勢を得た女性。

権力と住まいから、このような名で呼ばれているんですね。

そして清盛の父である忠盛が、祇園女御の近くに仕えていたため、その縁で清盛が誕生したと考えられています。

「清盛は白河法皇の落胤だ」

そんな説もありますが、実証は難しいですよね。

「祇園女御は甥にあたる清盛を猶子にした」なんて説もあり、そうであれば清盛の出世の速さも説明できたりしますが、あくまで結果論でしょう。

後に大出世したから囁かれたのであって、実際、誕生から叙任までの記録はほぼありません。

白河天皇/wikipediaより引用

清盛が本格的に歴史に登場するのは、大治四年(1129年)1月のこと。

12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任されています。

当時としては異例です。

というのも”従五位下”は貴族の仲間入りをする位階であり、いくら桓武平氏の末裔(=皇族の血を引く者)だからといって、元服間もない武士がこの位を授かるのはあまりに不相応でした。

しかも同年3月には石清水八幡宮の舞人に選ばれています。

かなりの依怙贔屓ですが、その割に異を唱えた人もいなさそうですので、やはり祇園女御や白河法皇などの強烈な後押しがあったのでしょう。

まぁ、だからこそ落胤説が唱えられるんですよね……。

若い頃の清盛は、継母である池禅尼の意向で、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていたといわれています。

池禅尼と家成はいとこ同士ですので、清盛に出世の糸口を掴ませようとしたのでしょう。

ただし、清盛の最初の結婚は、詳しいことが不明です。

相手は公家・高階基章の娘。

二人の間には長男・平重盛と次男・平基盛が生まれましたが、彼女とは早いうちに死別したようです。

 

貴族の壁 五位→四位を越える

平清盛の本格出世が始まるのは、保延元年(1135年)のことでした。

父・平忠盛が海賊討伐に成功した功績で、清盛も従四位下へステップアップ。

平忠盛/wikipediaより引用

当時、五位→四位の間には見えない壁のようなものがあり、藤原氏系の家でなければ昇進が困難でしたので、伊勢平氏の勢いがわかりますね。

続く保延三年(1137年)。

今度は平忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛も肥後守の官職を受けます。

以降、

久安2年(1146年)正四位下に昇進

久安3年(1147年)三男・平宗盛の誕生

と慶事が続きますが、宗盛の誕生と前後して、大きな事件に巻き込まれてしまいます。

久安3年(1147年)6月15日の【祇園闘乱事件】です。

この日、清盛は祇園社(現・八坂神社)に田楽を奉納しようとしていました。

その準備中のことです。

平家の郎党が武具を付けていて、これを咎めた神人(神職)と小競り合いが発生。郎党の放った矢が怪我人を出したばかりか、宝殿に当たってしまったのです。

画像はイメージです

直後に鳥羽法皇と崇徳上皇が公卿を連れて比叡山に行ったためか、この件はすぐには問題になりません。

二人が御所に戻った後、延暦寺から訴えが出されました。当時の祇園社が、延暦寺の支配下にあったからです。

延暦寺は加害者側である忠盛・清盛の配流を要求する強訴をしてきました。

しかし、忠盛が速やかに下手人たちを差し出したこともあってか、鳥羽法皇は清盛に対して罰金刑だけで終了。

たしかに宝殿へ矢を当てたのはマズいですが、死人も出ていない状況で流罪にしていては、朝廷から人材が減る一方であり、実利を重視したのかもしれません。

鳥羽法皇は再度の強訴を防ぐため、源平両氏に京の出入り口を厳重に警備させています。

刺激しないよう、当事者である忠盛・清盛らは除外されていますが。

忠盛は伊勢の領地を祇園社に寄進し、これ以上の対立意志がないことを示しているため、これも良い方向に働いたようです。

 


相続のライバル・家盛が急死して

この後、しばらく清盛は記録に登場しなくなります。

表立っての訴追はなくても、祇園闘乱事件が昇進を阻んだようです。

代わりに登場してくるのが、異母弟の平家盛でした。池禅尼と忠盛の息子であり、この時点での力関係を比べると

・清盛→母と死別+暴力事件の当事者だった

・家盛→母が健在+特に瑕瑾がない

というわけで、家督相続の面で清盛が非常に不利でした。

しかし、久安五年(1149年)、鳥羽法皇の熊野詣に随行する途中、家盛は病死。

出発する前から病にかかっていたようです。

同時期、伝染病の記録はなく少々きな臭い感じもありますが、清盛にとっては朗報でしかありません。

最大の対抗馬がいなくなったことで、家督を継承できる可能性が飛躍的に高まったのです。

話が前後しますが、清盛は久安二年(1146年)に安芸守へ任じられ、瀬戸内海の制海権を手にいれていました。

瀬戸内海は畿内と西日本を結ぶ非常に重要な海路。

それに加えて日宋貿易に本腰を入れ、莫大な利益を得ることができたのです。

実は、父・忠盛の時代から貿易の下地は整えられていて、以降、平家の西国における影響力、そして厳島神社への信仰が強くなって参ります。

なんだか忠盛の方がシゴト出来るんでは?

と思ってしまいますが、実際、彼は博多と敦賀に関わりがあり、その縁から貿易の拡大に成功していたのです。

そんなデキる父ちゃん・忠盛も仁平三年(1153年)に死亡。

いよいよ清盛が家督を継承します。

 

保元の乱

平清盛が家督を継いで約3年後の保元元年(1156年)7月、大事件が起きます。

皇室・摂関家・源平がそれぞれ敵味方に分かれて争った【保元の乱】が勃発したのです。

名前が混乱して受験生泣かせの争いですね。

保元・平治の乱合戦図屏風/wikipediaより引用

そんな複雑な情勢の中、清盛はドコかの勢力に肩入れせずにいたのですが、最終的に鳥羽法皇の寵妃・美福門院の招致に応じ、後白河天皇方で参戦します。

このとき割れかけた平家をまとめあげたのが、清盛にとっては継母にあたる池禅尼でした。

彼女は忠盛との間に平家盛だけでなく平頼盛という二人の息子をもうけていました。

また、崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母を務めていたため、上皇方との結びつきも浅くはありません。

彼女は、自分の息子たちに対し

「この戦、上皇様に勝ち目はない。あなた達はただひたすら、清盛殿に従いなさい」

と厳命し、平家の分裂を防いでいます。

血縁と利害関係で敵味方を決めることが多い中、自らの息子に対して「(彼女自身とは血の繋がりがない)兄へ従え」と言うのはなかなかできないことでしょう。

池禅尼が聡明な女性であり、清盛たち平家一門も重んじていた様子がわかります。

正確にいえば、清盛の家である伊勢平氏でも上皇方についた人はいました。

しかし彼らは清盛の叔父や傍流など、少し遠い血筋の人々であり、清盛たちの結束を乱す程ではなかったようです。

ちなみに『保元物語』では、当時の最強武士候補筆頭である源為朝

「清盛のヘナチョコな矢なんて平気ですよwww」(意訳)

と豪語している場面があります。

源為朝/wikipediaより引用

為朝ほどの荒武者からすると、この世の大部分の武士はヘナチョコになってしまう気もするのですが……。

当時の武士が「弓馬の道」を重視していたこともわかって面白いものです。

ちなみに「弓馬」とは、弓術と馬術ではなく、

・歩射(立って矢を放つ)

・騎射(馬から矢を放つ)

という意味となります。とにかく弓が重要視されたんですね。

 

平治の乱

保元の乱は、池禅尼の予想通り平清盛方が勝利しました。

この活躍により、清盛は播磨守・大宰大弐となり、一層勢力を強めて一族への恩賞も上々でした。

また、平家は武力を担保することで、信西(藤原家出身の僧侶)が推し進めようとする改革を後押ししました。

河内源氏がこの時点で重用されなかったのは、代々私戦が多く信用に足らなかったことも大きいようです。

対して平家は「院の護衛」として務めてきたこと、保元の乱で(ほぼ)一族団結して天皇方についたことなどが評価されたと考えられています。

私的な面でも、信西の息子・藤原成範(しげのり)が清盛の婿になっており、結び付きを強めていました。

しかし……。

これで「めでたしめでたし」とはならないのが世の常。

保元三年(1158年)8月、鳥羽法皇から多くの荘園を相続した美福門院が、

「後白河さんは元々中継ぎの予定だったんですし、守仁親王さんが無事成長された今、譲位されるのが筋ですよね?」

と言い出したのです。

この時代、荘園の多さは政治的権力に直結します。まして守仁親王は美福門院の養子でしたので、養母としてまっとうな要求でした。

このため、信西も拒み続けることはできず、後白河天皇が譲位。

守仁親王が二条天皇となりました。

二条天皇/wikipediaより引用

協議を行った美福門院と信西が二人とも僧形だったことから、このやりとりは「仏と仏の評定」と称されています。

実際は、握手しながら蹴り合ってるようなイメージが湧いてきますが……。

いずれにせよ、これで新たな対立の構造が出来てしまいます。

慣例に従って院政をしたい後白河上皇派
vs
鳥羽法皇は薨去したし、後白河上皇は政治に向いてないから親政をしたい二条天皇派

後白河上皇と二条天皇の親子仲が良好とは言えないことも対立の遠因になったばかりか、後白河上皇派の中にも

「信西がウザイから排除したい。そのためなら二条天皇派と組んでもいい」

と考える”反信西派”がいて、非常にややこしい状況になっていきます。

そして勃発するのが【平治の乱】。

平治元年12月9日(1160年1月19日)のことです。

平治の乱
平家の天下を決定づけた平治の乱|勝因は清盛の政治力が抜群だったから?

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上記の記事タイトルをご覧になってピンと来るでしょうか。

合戦というより「政争」の印象が強いですが、事実上の総大将である清盛に面白い戦闘エピソードがあります。

指揮をとっていた部屋の妻戸に敵の矢が当たったことで怒り、

「ここまで敵を近づけるとは何たることか! どけ、ワシが馬を駆ろう!」

と言って、自ら戦線へ出た、ということになっています(平家物語)。

このときの清盛の格好がなかなかで。

・銀の大鍬形がついた兜

・濃紺の直垂

・黒い鎧

・漆塗りの矢柄と鷲の羽がついた矢を入れた箙(えびら・矢を入れて背負う道具)

・黒漆を塗った鞘の太刀

・球磨川の頬貫(浅い靴)

さらには黒い馬に黒い鞍を置き、出陣したといいます(平治物語)。

なかなかに見栄えがしそうですね。

しかし、この戦いに勝利した清盛は、戦後、大きな判断ミスを犯してしまいます。

よく知られるように、

・池禅尼の嘆願に応え、源頼朝の死罪を免じ、伊豆への流罪にした

んですね。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

これは単に彼女が優しかった――というより、おそらく頼朝の出仕先である上西門院(後白河上皇の姉)や、頼朝の母の実家である熱田大宮司家の干渉も大きかったと思われます。

しかし、平家にとっては重大な災厄となってしまいました。

 

朝廷の政争も巧みにかいくぐり

平治の乱に勝利した平清盛。

伊豆へ流した源頼朝は結果的に失敗となりますが、それはあくまで後の結果論であり、この後しばらくは後白河上皇・二条天皇のどちらにも肩入れしすぎず、中立な立場を維持しようと務めます。

自分の正室・平時子が二条天皇の乳母を務めていたため、清盛も乳母父=後見者の一人といえる状況でした。

一方で、後白河上皇の院庁の別当も兼務していています。

平家の状況が変わってくるのは、応保元年(1161年)9月。

後白河上皇と平滋子の間に、憲仁親王(後の高倉天皇)が生まれてからです。

高倉天皇/wikipediaより引用

滋子は、清盛の妻・時子の妹でした。清盛からすれば、義妹が未来の天皇の母になったわけです。

そして彼女らの兄弟(清盛の義兄弟)にあたる平時忠・平教盛らが、憲仁親王の立太子を狙って動き始めました。

激怒したのが、二条天皇です。

仮に憲仁親王が皇太子→即位となった場合、二条天皇は院政を敷けなくなります。

元々、親子仲が良くなかったこともあってか、二条天皇は

「父上が私から実権を奪おうとしているのだな!」

と考え、後白河上皇の近臣たちを解任。

二条天皇の怒りを知った清盛は、御所の警備として武士を派遣し、対立の意思がないことを示します。

そのおかげで清盛本人には累が及びませんでしたが、時忠に対する怒りは解けません。

「二条天皇に呪詛をかけた」という容疑で流刑になってしまいます。

二条天皇の信頼を勝ち取った清盛は、天皇親政を軌道に乗せ、その一方で関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせるなどして、摂関家との結びつきも強めました。

だからといって、完全に後白河上皇から離れたわけでもなく……。

この辺りの政治感覚の鋭さがさすがとしか言いようがありません。

長寛二年(1164年)には、後白河上皇のために蓮華王院(通称・三十三間堂)を造っています。

荘園も付属しており、これによって後白河上皇の経済事情が良くなりました。

 

後白河上皇がジワジワ浮上

二条天皇としては、平家を完全に自分の味方にしたかったのでしょう。

長寛三年(1165年)に、清盛の嫡子・平重盛を参議に就けますが、それから程なくして永万元年(1165年)7月28日、崩御してしまいます。

次に即位したのは二条天皇の息子である六条天皇。

六条天皇/wikipediaより引用

数え2歳で即位という異例の事態でしたが、後白河天皇→二条天皇→六条天皇という直系での継承が優先されました。

皇太子には、先述の後白河天皇の子である憲仁親王(二条天皇の弟)が立てられます。

こちらも当時数えで6歳。

六条天皇はもちろん、憲仁親王にもまだ乳母がついているような年齢です。

この時代の乳母は教育係も兼務するため、乳離れの後も長く仕えていることが珍しくなく、その乳母を清盛の嫡男・平重盛の妻が務めます。

つまり重盛が「次期天皇の乳母父」となり、平家は代替わりの後も安泰……という立場になったのです。

そして、近衛基実が摂政、その舅である清盛が中心となり、六条天皇の時代が幕を開けます。

一方そのころ後白河上皇は、あまり目立たない存在でした。

元々、後白河上皇は皇位継承の可能性が薄い立場だったこともあり、若い頃から今様(当時の流行歌)に熱中するなど、為政者としての資質に疑問を持たれていました。

また、性格的にも問題アリで。

周囲の話をあまり聞かず、自分のやりたいことを優先させる傾向があり、重臣たちには歓迎されていません。

しかし、にわかに時代が動きます。

永万二年(1166年)7月に基実が急死し、後白河上皇が政治に復活せざるを得なくなるのです。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

当人やその近臣たちにとっては願ったり叶ったり。

摂関家の内部では、基実の子・基通がまだ幼かったため、代わりに弟・松殿基房が摂政を引き継いだのですが、ここで少々問題となるのが、摂関家の所領です。

基房が一時的にでもすべての所領を相続してしまうと、将来的に基通のところへ戻ってくるかどうか怪しくなります。

そこで清盛は、未亡人となった娘・盛子に、摂関家の所領の大部分を相続させました。

これによって平家一門の勢力がさらに強まり、逆に摂関家の力は削減。

清盛は春宮大夫、そして内大臣と重職を兼務していき、公私ともにめきめきと力をつけていくのです。

重盛も権中納言となり、将来が約束されているも同然でしたが、内大臣については間もなく辞任します。

おそらくは

・さらに昇進して太政大臣になりたい

・自分が健康なうちに重盛にも内大臣→太政大臣への道を確約させておきたい

という狙いがあったのでしょう。

以下のように

・清盛 春宮大夫→内大臣→太政大臣

・重盛 権中納言→(中略)→春宮大夫→内大臣

平家内で官職のバトンタッチを試みたというわけです。

身内での対立が比較的少なかったこともあり、これは無事に成功します。

そして仁安二年(1167年)2月11日、清盛が太政大臣、重盛が権大納言に昇進しました。

太政大臣は、白河天皇の治世以来、実権のない名誉職になっていましたが、

「摂関家以外の人間が人臣を極める官職に就いた」

という事実が重要です。

これに満足したのか、清盛は3ヶ月で太政大臣を辞任すると同時に、表向きは政治から引退。

ほぼ同じタイミングで平重盛が賊徒追討の宣旨を受けたため、平家が事実上の国軍同然に扱われるようになりました。

まさに絶頂!

しかし……。

仁安三年(1168年)から少々雲行きが怪しくなっていきます。

 

高倉天皇の即位

まず、平清盛が病で倒れました。

「寸白(すばく)」と呼ばれる寄生虫病だったらしく、本人の申告ではサナダムシだったとか。

病気になったら出家するのが当時のスタンダードですので、清盛もこれを機に頭を丸めています。

しかし、政治の中心にあった人物がいきなり交代してしまっては、世間への影響が大きすぎます。

九条兼実の日記『玉葉』でも、

「清盛がいなくなってしまったら、国はいよいよ衰亡してしまうだろう」

と書かれており、個人的な感情はともかく、清盛が”国家の柱”として認識されていたことがわかります。

九条兼実/wikipediaより引用

これに対し、後白河上皇は六条天皇から憲仁親王(高倉天皇)への譲位を早めて、影響を最低限に抑えようとしました。

少しややこしいので、補足しておきますと……。。

六条天皇の実母は身分が低く、後見役が心もとない状況でした。

二条天皇の中宮・藤原育子が養母として六条天皇を支えていましたが、清盛の義妹である滋子を母に持ち、平家の全面的な支援を受けやすい憲仁親王と比べると、その差は歴然。

また、後白河上皇からすると、六条天皇は孫で、憲仁親王は息子です。

どちらであっても院政を続けられるため、上皇から見ると「より基盤の安定した者を位につけておいたほうが、結果的に自分も助かる」ということに……。

と、こうして即位したのが高倉天皇だったのです。

高倉天皇/wikipediaより引用

幸い、清盛の病気はしばらくして良くなりました。

しかしそれからは、政治の表舞台よりも、平家の隆盛に向けて動き始めます。

福原に雪見御所という別荘を作り、ここを拠点として、厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に励むのです。

これには、仁安3年に起きたとある騒動が絡んでいたかもしれません。

同年11月、平家一門の平頼盛・平保盛が解官されてしまったのです。

宮中の重要行事のひとつ”五節舞”を演じる女性(舞姫)の手配ができなかったため、そのお咎めを受けての解官でした。

五節舞は、宮中行事の中で唯一女性が舞人を務めるもの。当然、舞姫を出す家にとっては大変な名誉となりますが、その分お金もかかります。

また、頼盛・保盛彼らは滋子が入内する際の奉仕も怠っていたため、ついに後白河上皇のカミナリが落ちたのでした。

さらにこの時期には重盛も病みついており、次世代への不安を感じていたでしょう。

清盛が神頼みと経済基盤の拡充に動いたのも、自然な流れといえそうです。

 

「平家にあらずんば人にあらず」

不穏な出来事は、次第に平家以外のところへも現れてきます。

仁安3年12月21日には伊勢神宮の正殿が焼失。

仁安4年正月からその再建が始まりますすが、直後の2月5日、今度は比叡山で横川の中堂が全焼してしまいました。

比叡山延暦寺横川中堂

当時の価値観では、火事を含めた災害は不吉の象徴です。

不穏なものを感じた後白河上皇は出家を決意し、正月から3月にかけて熊野や賀茂・高野山に詣でて、神仏に出家の暇乞いをしました。

平清盛もこれに同調する動きを見せます。

3月には高野山帰りの後白河上皇を福原で迎え、千人もの僧侶を呼んで法華経の供養をしました。

同年6月に上皇が出家する際も、清盛はともに東大寺で授戒し、協調する意志を見せています。

これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものでしたが、儀式や神詣でをするには、いちいち多額の費用がかかります。

平家の場合、昇進に伴って官位が上がった者も多く、それに伴って荘園も増えていったため、比較的ダメージは少ない。

しかし、他の家にとってはたまったもんじゃありません。

しかもその最中、例の発言が出てしまいます。

「平家にあらずんば人にあらず」

なんだか、いかにも調子に乗った平清盛の発言に見えますが、発言したのは平時忠です。

発言したのが誰であれ、平家の「驕り」と疎まれても仕方はないですよね。

 

嘉応の強訴

また、嘉応元年(1169年)12月23日には延暦寺の強訴にもプレッシャーをかけられました。

【嘉応の強訴】と呼ばれる事件です。

きっかけは、尾張守・藤原家教の代官が、比叡山の日吉神人(ひえじにん)を侮るような言動をして、揉め事になったことです。

こうなると当事者同士では「ああ言えばこう言う」状態で埒が明かない。

そこで、双方が朝廷に訴え出たのです。

朝廷が、神人3名を獄に繋いで事を収めようとした……ところ、当然、比叡山側は納得しません。

神人たちと尾張の国主・藤原成親の流罪を求め、強訴に出たのです。

大衆(だいしゅ・僧侶の集団)は、文字通り神輿を持ち出し、内裏の待賢門・陽明門のあたりで鼓を叩きながら大声で訴えたとか。

平安京御所/photo by 咲宮薫Wikipediaより引用

当時、高倉天皇は7歳。

帝位についているとはいえ、現代でいえば小学一年生の少年です。家の周りでガンガンがなり立てられ、相当の恐怖を感じたことでしょう。

後白河法皇もそのあたりに気を遣い、

「幼主を驚かせるのは不遜であろう、院御所に来れば私が話を聞こう」

と言いました。

法皇にとっても、高倉天皇は、歳を重ねてから愛妃との間にできた子供です。政治的にも、個人的にも大切な存在だったことでしょう。

しかし、大衆は「幼主であっても、内裏へ訴えるのが伝統である」として聞きません。

説得や武力行使による追い出しなども考えられましたが、最終的に法皇は大衆の要求を受け入れました。しかし……。

決定までに時間がかかりすぎたせいか。

大衆は納得できず、なんと神輿を放置して一時的に引き上げてしまったのです。

やむなく法皇が成親の流罪を決めると、大衆はようやく納得し、神輿と共に山へ帰ったそうです。

しかし、法皇もさすがにこの決断を悔いたようで、比叡山のトップである天台座主・明雲を高倉天皇の護持僧から退けました。

また、処理に不手際があったとして、平時忠や平信範を解官・流罪にしています。

一方で成親の流罪を取り消し、時忠の後任として検非違使別当に任じました。

しかし今度は

「大衆をとりあえず内裏から出ていかせるために口約束をした上、後から関係者を処罰して、お気に入りの側近を不問かつ重職に就けた」

と見られても仕方がありません。

実際、この後処理が、延暦寺の不満を招きます。

巷には「再び強訴するのでは」という噂も流れ始め、懸念を抱く者も現れ始めました。

清盛はこのころ福原にいましたが、頼盛や重盛に事の次第を報告させると、どうにも話まとまらない様子。

「直接、京都に行って話をしないと、この件は収まらないか!」

そう考え、1月17日に上洛すると、これに影響されてか、成親は検非違使別当の辞任を申し出ています。

その後、後白河法皇のもとで再び公卿の会議が行われました。

時忠・信範の罪は問わないことにし、成親も解官だけで済ませる、ということで話がまとまります。

 

殿下乗合事件

翌嘉応二年(1170年)には、また別の事件も起きています。

【殿下乗合事件】と呼ばれるもので、きっかけは嘉応2年7月3日のこと。

摂政・松殿基房の一行が法勝寺での法華八講へ出かける途中、とある女車(女性が乗る牛車)に遭遇し、基房の従者がその女車に対して「無礼だ」と咎めたのだそうです。

女車の従者に乱暴狼藉を働いたとも。

 

 

しかし、その車に乗っていたのが女性ではなく、平重盛の息子・平資盛だったため、さぁ大変。

平資盛/wikipediaより引用

なぜ資盛が女車に乗っていたのかは不明ですが、この時代、お忍びで出かけるときに用いるのはよくある話でした。

「息子の従者に暴力を振るわれた」となれば、親側としては黙っていられません。

基房は慌てて謝罪の使者を出し、下手人の引き渡しを申し出たそうですが、けんもほろろに断られてしまいます。

報復を怖れた基房は、騒動に関わった従者たちをクビにして検非違使に引き渡しました。

しかし重盛の怒りは解けず、兵を集めて報復の準備を……。

基房はすっかり怯え、参内もしなくなってしまったほどだったとか。

ただし、この頃は高倉天皇の加冠の儀が迫っていて、摂政という立場上、基房がこれをサボるわけにはいきません。

そして嫌な予感というものは往々にして当たるもので。

加冠の儀が行われる10月21日、参内する途中の基房一行を平重盛の兵が襲撃!

前駆5名が馬から引き落とされ、4人が髻(もとどり・髪を束ねた部分)を切られたといいます。

当時、公の場で冠や烏帽子を落とされたり、髪をさらすというのは非常に恥ずかしいことであり、髻を切られるのは死にも等しい恥辱です。

そのため基房は参内できず、加冠の儀は延期となってしまうほどでした。

ただし、直後の24日に基房と重盛は参内しているため、この数日の間に和解が成立したと考えられています。

この事件について、近年では

・史料によっては21日の襲撃犯の名が書かれていないこと

・資盛がこの後昇進していないこと

などから「重盛は関与していなかったのではないか」とする見方もあるようです。

しかし、平家の権勢が依然として強力である証としては間違いないでしょう。

 

安徳天皇の即位で絶頂かと思いきや……

平家と法皇の関係も変化しつつありました。

平清盛は、法皇との協調を図ってきましたが、嘉応の強訴が片付いた流れなどからわかる通り、世間的な影響については清盛のほうが上回っている状況です。

法皇本人や近臣にとっては、これが面白くない。

安元二年(1176年)7月、両者の緩衝材となっていた建春門院(滋子)が死去し、溝はさらに深まります。

具体的な動きが出てきたのは、一年近く経った治承元年(1177年)6月のこと。

このとき、”鹿ケ谷の陰謀”と呼ばれる平家排斥計画が発覚し、清盛はこの処罰として院の近臣を排除しにかかりました。

こちらも現代では少し見方が変わってきていて、

「鹿ヶ谷の陰謀は存在していなかった。後白河法皇の力を弱めるために、清盛がでっち上げたものだ」

とする説もあります。

治承三年(1179年)には、清盛にとってつらいこと、そして腹立たしいことが続きました。

まず6月に娘の盛子が逝去。

これに対し、後白河法皇は清盛に何の相談もなく、盛子の荘園を没収してしまいました。

さらに7月には、嫡子の平重盛が病死してしまいます。こちらも同様に、法皇が勝手に重盛の知行国・越前を没収してしまいます。

平重盛/wikipediaより引用

続いて、法皇は松殿基房の子・師家(当時8歳)を権中納言に任じました。

基房の兄である近衛基実の子・基通が成人していたにもかかわらず、です。

基通の継母が清盛の娘・盛子であり、そして妻も同じく清盛の娘・完子だったため、後白河法皇は平家の影響力を弱めるために、基通を遠ざけて師家を引き立てたものと思われます。

ここまであからさまにやられると、清盛としても黙っていられません。

同じく治承三年11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行しました。

いわゆる【治承三年の政変】です。

松殿基房・師家をはじめ、反平家とみなした公家や院の近臣たち39名をクビにしてしまいました。

そして後任には、平家に近い人々を就けます。

さらに後白河法皇を鳥羽殿に押し込めて、実権を完全に奪取。

清盛の怒りがうかがえるというか、お互いに極端すぎというか。

大掃除を追えた清盛は、後のことを平宗盛に任せて福原に帰ります。

平宗盛/Wikipediaより引用

しかし平宗盛は、清盛と比べるとかなり優しい性格をしており、このような大鉈を振るった後の始末には向いていませんでした。

また、高倉天皇や近衛基通も、これまで法皇や清盛に導かれてきた側です。

急に「今日から政治を主導しろ」と言われても、「そんな無茶な」と思ったことでしょう。

そのため清盛は楽隠居とは行かず、たびたび政治の場に出てくることになります。

まずは政治経験の少ない宗盛らをサポートさせるため、左大臣・藤原経宗、そして右大臣・九条兼実を懐柔。

異母弟・平頼盛の武力を取り上げながら、政治的に復権させました。

他、清盛の妻の弟である時忠、平家一門から妻を迎えていた藤原(四条)隆季・源(土御門)通親などに実務を任せています。

治天の君となった高倉天皇には迷惑でしかありませんね。

周囲は平家の息のかかった者ばかり。

よほどそれが堪えたのか、政変からおよそ3ヶ月後の治承四年(1180年)2月に退位してしまいました。

そこで跡を継いだのが、言仁親王改め安徳天皇。

高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた人です。

安徳天皇/wikipediaより引用

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも可愛い赤ちゃんが出て話題になっていましたね。

清盛は天皇の外祖父として、かつての藤原道長のような地位に登りつめたことになります。

しかし、後白河法皇を押し込めた強引さなどから、水面下で平家への反感は募っていました。

それが噴出したのが、かの有名な【以仁王の挙兵】でした。

 

以仁王の挙兵

治承4年(1180年)5月26日。

後白河法皇の子である以仁王(もちひとおう)が源頼政と共に挙兵しました。

後白河天皇の第三皇子・以仁王/Wikipediaより引用

興福寺・園城寺もこの動きに同調し、再び反平家の機運が高まります。

これを知った清盛は、ただちに兵を動かし、以仁王らを討ち取らせました。

しかし、延暦寺も反平家に傾きそうだということがわかり、地勢的に不利な京都を捨てることを決意。

清盛一生の不覚は、ここで安徳天皇を巻き込んで遷都を選んだことでしょう。

ただでさえ、遷都には膨大な資金と時間がかかります。

さらに、この頃の近畿地方は【養和の飢饉】の端緒となる干ばつに見舞われていました。

そんな状況で強引に遷都を選んでしまったのですから、それまでの遺恨があろうとなかろうと、反感を招くのは致し方ありません。

飢饉については、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも北条義時が話題にしていましたよね。

こうした中で、以仁王の令旨を受けた人々が兵を挙げました。

治承四年(1180年)8月には、源頼朝や武田信義が。

一ヶ月ほど遅れて木曽義仲が、それぞれ地元の勢力を率いて立ち上がったのです。

木曽義仲/wikipediaより引用

これに対して清盛は平維盛を総大将とし、東国へ軍を派遣しました。

しかし、彼らはこれまた有名な富士川の戦いで逃走してしまい、平家の評判を決定的に落としてしまいます。

上方でも反平家の動きが勃発。

園城寺・興福寺・延暦寺などの寺社勢力や、近江源氏などが結びつき、琵琶湖周辺を占拠。これによって物流と交通を押さえられてしまいました。

まだまだ動きは止まりません。

程なくして九州でも反平家の乱が発生し、さらには高倉上皇をはじめとした京都周辺、そして平家一門からも遷都への反対意見が強まり、清盛は諦めて京都へ戻りました。

しかし、それでおとなしくする清盛ではありません。

平清盛は、京都に近いエリアの外敵を排除するため、一門の人間を差し向けました。

まずは平知盛らに命じて園城寺を焼き、近江源氏を討伐すると(「近江攻防」と呼ばれる)、孫の平重衡は奈良へ向かわせ、興福寺や東大寺などを焼かせました。

こちらは【南都焼討】としてよく知られていますね。

平重衡/wikipediaより引用

こうしたパワープレイで、いったんは近畿周辺の反平家勢力も収まったかに見えました。

しかし、やりすぎでした。

「数千の民と多くの仏像を私欲の犠牲にした」という事実は、清盛に”仏敵”の烙印を押し、目の前の不満を鎮めることはできても、潜在的な敵を増やしたといえます。

実際、治承四年中に平家側だった伊予の河野通清・通信父子が離反。

翌治承五年(1181年)には豊後・伊勢・志摩で豪族の反乱がありました。

関東武士たちの進言により、頼朝が常陸の佐竹氏など、平家側の家を攻略していったことも、清盛たちにとっては不利に働いていきます。

むろんここで心が折れる清盛ではありません。

状況を打開しようと、いくつかの工夫をこらします。

・平宗盛に畿内の軍事権

・越後の城資永と陸奥の藤原秀衡に、頼朝と信義追討の宣旨

を与えたのです。

平宗盛には畿内を掌握させ、城資永と藤原秀衡には、東日本における反平家勢力の打倒を目指したのです。

そして治承五年(1181年)2月下旬には、宗盛らが東国へ向かう予定だったのですが……。

清盛、倒れる――。

 

同じ部屋にいると焼けてしまう

「同じ部屋にいると焼けてしまいそうだ」

そんな風に言われる程の高熱が出て、倒れてしまった平清盛。

高熱にうなされる平清盛/wikipediaより引用

病名は不明で、いくつか候補は推測されています。

・マラリア
・インフルエンザ
・猩紅熱
・肺炎
・脳出血
・腸チフス
・髄膜炎

一昔前は、マラリア説が主力でしたが、周囲の状況からしてまだまだ謎。

いずれにせよ死期を悟った清盛は、後白河法皇にこう献言します。

「自分の死後のことは全て宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行ってください」

これに対し法皇は返事をしなかったため、清盛はこのことを恨みに思っていたようです。

しかし、報復に出る前に余力が尽きてしまいました。

治承5年閏2月4日、鴨川東岸にある平盛国の屋敷で息を引き取ったとされています。

享年64。

終焉の地は異説もありますが、有名なのがその遺言ですね。

「我が子孫は最後の一人になるまで頼朝と戦い、奴の首を我が墓前に供えよ」

頼朝としては「清盛を討って父の仇討ちを果たす」ことが目的だったようで、平家に対しては、この後、和解を申し出ます。

しかし宗盛が、真っ向から跳ね除けました。

「父の遺言がありますので、和睦など出来ません」

後世の創作では、貴族的に描かれることの多い平家ですが、武士としての気概を失っていたわけではなかったのでしょう。

最終的な勝者となる源頼朝らと比較されるためか。

悪役として描かれがちな清盛の人物像も、別の記録では好人物として書かれたりします。

例えば鎌倉初期・建長四年(1252年)に成立したとされる説話集『十訓抄』の中ではこう紹介されています。

「若い頃の清盛は、とても慈悲深い人物だった」

非常に優しい人物像も浮かんできます。

・戯れやお愛想(おべっか?)をされたら機嫌よく笑ってやった

・誤りや失敗をした者にも、声を荒立てて叱るようなことはなかった

・冬の寒さが厳しいときは、若い小侍従たちを自分の衣の裾の方に寝かせてやった/翌日彼らが寝坊していても咎めず、ゆっくり寝かせておいた

・とても身分の低い召使いでも、本人の家族や知り合いの見ている前では一人前に扱った

傲慢な権力者像からはかけ離れた姿ですよね。

また『愚管抄』には、こんな描写があります。

「清盛は常に慎み深く、よく思慮を巡らせて、どの方面にも細かい気配りをする人だった」

晩年の政策には強権的なところも多々見られますが、一個人としての平清盛には、学ぶべき所も多いのかもしれません。

北条義時の三男で、北条泰時の弟である北条重時は、同様の心がけを持ち、家訓として周囲に言い含めていたともされています。

敗者だから悪人で勝者だから善人とは限らない――。

そんな視点で捉えると、また違って見えてくる人物の好例ではないでしょうか。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
五味文彦/日本歴史学会『人物叢書 平清盛』(→amazon
浅見和彦『日本古典文学全集 十訓抄』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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