天正11年(1583年)4月24日は織田信長の妹として知られる、お市の方の命日です。
戦国一の美女とも囁かれ、その生涯はあまりにも劇的。
夫の浅井長政が信長を裏切ったかと思えば、再婚相手の柴田勝家が豊臣秀吉に敗れ、二人で自害という最期を迎えます。
そんなお市の方は一体どんな女性だったのか?

お市の方/wikipediaより引用
生涯を振り返ってみましょう。
お市の方は生年も結婚年も不明だった
戦国時代の女性は謎多き人物が多いですが、お市の方もまた同様。
通説によると生まれは天文16年(1547年)とされていて、兄・信長の13歳下となります(信長は1534年生まれ)。
しかし両親については不確定なところがあり、本当は「信長のいとこ」だったのが輿入れの際に「信長の妹」ということにしたのではないか?という指摘もあります。
彼女の経歴が明らかになるのは、この輿入れからとなり、嫁ぎ先はすでにご存知の方も多いでしょう。
北近江の浅井長政です。

浅井長政/wikipediaより引用
ここで問題が一つ。
お市の方は、いつごろ長政に嫁いだのか?
実は、信長の事績を細かに示す『信長公記』にも掲載されておりません。
そのためお市が嫁いだ年は以下のように
・永禄4年(1561年)
・永禄6年(1563年)
・永禄11年(1568年)
と諸説あるのです。
そんな細かいこと気にすんなよ……と私自身も言いたくなりますが、実は嫁いだ年によって大きく変わってくる重要なことがあります。
浅井長政の長男・万福丸です。
この万福丸が永禄7年(1564年)生まれなんですが……果たしてお市の実子かどうか? 結婚した年によって変わってきますよね。
その考察は後述するとして、ここでは仮に永禄11年(1568年)に結婚したとして話を進めたいと思います。
というのも永禄11年(1568年)は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした大きな節目だったからです。
上洛のための政略結婚が成立
お市の兄である信長は若い頃から苦労の連続です。
父・信秀から家督を継いだのが天文21年(1552年)。
その後は弟の織田信勝はじめ他の親類に幾度も裏切られながら、14年かけてようやく1565年に尾張統一を果たしました。

織田信長/wikipediaより引用
同時に美濃への進出も進めていた信長は、永禄10年(1567年)に斎藤龍興を追い出して美濃を制すると、本拠地を岐阜へ移転。
問題はこの先です。
以下の地図をご覧の通り、織田信長の岐阜城から西の京都へ進むには、浅井長政の小谷城付近を通らねばなりません。
※右から岐阜城(黄)、小谷城(紫)、六角氏の観音寺城(赤)、御所(黄)
尾張と美濃を有する信長にとって、北近江だけを領国とする浅井氏は、国力で見れば格下です。
しかしその北には浅井の同盟相手・朝倉義景がいて、真っ向から対戦すれば織田家は二国を同時に敵に回してしまう。
それよりは政略結婚で浅井と同盟を結んでしまった方が早い。
お市の方は、そうして浅井家に嫁ぐことになったのでした。
仲睦まじい二人 長政とお市
幸いお市の方は、嫁ぎ先の浅井長政とは仲睦まじい関係だったと思われます。
というのも、永禄11年(1568年)に嫁いだその翌年に茶々(淀殿)を産んでから、1年おきに娘を出産しているのです。
俗に【浅井三姉妹】と呼ばれる女性たちで、いずれも名だたる武将たちに嫁いでいます。
浅井三姉妹の生年

左からお江(崇源院)・茶々(淀殿)・初(常高院)/wikipediaより引用
もし永禄4年や6年に嫁いでたとしたら、数年間子供ができず、永禄12年を皮切りに突如3人もの娘を約1年おきに恵まれたことになります。
もちろんそういうケースもあるでしょうが、戦国大名はいち早く子供を欲するものです。
ゆえに嫁入りは永禄11年説とした方が自然でしょう。
実際、お市の方と浅井長政は互いに愛し合っていたようで、後に長政が信長と戦争状態に陥ったときも、
長政「信長公のもとへ帰れ」
お市「ならば、ここで殺しておくれ」
なんてヤリトリがあったとも伝わります。
戦国時代の女性は、嫁ぎ先より実家を優先する傾向がありましたが、絶世の美女として名高いお市の方は、同時に女性としての情を優先する方だったのかもしれません。
話を戻します。
小豆袋の話はウソだけど……
お市の輿入れによる同盟が功を奏したのでしょう。
織田信長は永禄11年(1568年)に将軍・義昭を奉じての上洛に成功。
これにて織田と浅井の両国もより一層結びつきは固くなるはずでしたが、友好関係は長くは続きませんでした。
2年後の元亀元年(1570年)、突如、織田軍が越前の朝倉へ攻め込んだからです。
前述の通り浅井と朝倉は同盟を結んでいます。その関係を無視したまま信長が朝倉を攻撃すれば、浅井としては立つ瀬がない。
ゆえに越前攻めはしない――という方針でしたが、信長はこれを破って朝倉方の天筒山城を落城させると、次に金ヶ崎城を秀吉の調略で開城させ、更に北へ進軍……このとき事態が勃発しました。
浅井長政が信長を裏切り、挙兵したのです。
信長の背後に襲いかかり、浅井と朝倉で織田軍を挟み撃ちにする作戦でした。
このときお市の方は兄・信長へ【両端を縛った小豆袋】を送り、織田軍が「挟撃に遭う」ということを暗に知らせたと言います。
こちら、後世の作り話と思われますが、単なる妄想とも言い切れません。
というのも、お市の方が浅井家に嫁ぐ際、密かにスパイとして同行させていた信長の家臣が、いち早く織田軍に危険を伝えたのでは?という可能性もあるからです。
いずれにせよ絶体絶命に陥った信長は、金ヶ崎から大慌てで逃げ出し、どうにか事なきを得ました。
なお、このとき豊臣秀吉と並んで織田軍の殿(しんがり・最後尾で敵を引きつける役)を担ったのが明智光秀たちです。

明智光秀(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用
浅井家の裏切りは、いわば秀吉と光秀を出世させた契機であり、この撤退戦は【金ヶ崎の退き口】として後世に知られます。
歴史にIFは禁物ながら、もし浅井長政が裏切りなどしていなかったら、織田政権での長政は秀吉や光秀より上のランクにいた可能性が高そうですよね。
夫と兄が血みどろの戦いを繰り広げ
夫の裏切りにより兄がピンチに陥り、結果、両家が激突――。
お市の方としては立場がありませんが、この後も長政との間に次女(初)と三女(江)を産んでますので、二人の仲は崩れなかった模様です。
ただ……厳しい日々だったことは間違いないでしょう。
元亀元年(1570年)に【姉川の戦い】が勃発してから天正元年(1573年)まで。
織田と浅井は血みどろの戦いを幾度も繰り返し、ついに浅井家が滅ぼされてしまったのです。

浅井家の本拠地である小谷城跡に建てられた小谷城址碑
前述の通り、夫の長政から「信長公のもとへ戻れ」とされていたお市の方(と浅井三姉妹)は、ついにその言を受け入れ浅井家から織田家に出戻り。
問題は、まだ9歳の長男・浅井万福丸でした。
合戦の混乱にまぎれて小谷城から脱出を果たしていたのですが、程なくして秀吉に捕らえられると、関ヶ原で串刺しにされてしまっています。
ここで考えたいのが、万福丸の実母です。
もしも、お市の方が生みの親だった場合でも、信長は万福丸を殺していたか?
一つ参考になる例があります。
信長に対して謀反を企み、謀殺された弟の織田信勝です。
信長に殺されたとき、信勝には「津田信澄」という男児がおりました。
謀反者の男児は生かしておかない――という鉄則に従えば殺さねばならない場面で、信長はこの甥っ子を許し、自らの家臣にするため育て上げているのです。
身内や家臣にはかなり優しいところもある信長。
ですので万福丸が血の繋がった甥っ子だったら助けていたのではないでしょうか。
それにお市の実子でしたら、彼女が何らかの命乞いをした記録や言い伝えが残っていてもよさそうです。
ちなみに長政には、お市の方と結婚する前に「平井定武の娘」と結婚していた経歴があり、さらには側室もいて、最大で4人の男児をもうけていた可能性も指摘されております。
長政の男児
・万福丸
・喜八郎
・円寿丸
・万寿丸
妻はお市の方だけ――そんなイメージもあっただけに意外ですね。
まぁ、男児が生まれてこないと浅井家の存続にかかわりますので、側室を迎えるのも自然なことだとは思います。
織田家に出戻りしていたら突然の本能寺
夫を殺され織田家に出戻りしたお市の方(と三姉妹)。
その後の彼女らはどうしたか?
実はこれも詳細は不明で
◆清洲城主だった織田信忠に預けられた
◆上野城主(伊勢国)だった織田信包(信長の弟)に預けられた
といった諸説あります。
ただ、天下人・信長の妹(と姪っ子)だけに、不自由のない生活だったことは間違いないでしょう。
お市の方は信長が再婚を勧めても断っていたと言います。
すでに彼女には3人の娘がいましたし、これ以上、子供を産む必要がないと思ったか、亡き長政への愛なのか。
あるいは他家に嫁いで、これ以上、戦乱に巻き込まれるのがイヤだったか。
いずれにせよ織田信長という稀代の人物の妹として、平穏な道を歩むことは許されません。
天正10年(1582年)6月、【本能寺の変】が起きたのです。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
このときお市の方たちがどこにいたのかは不明です。
おそらく尾張か伊勢だったのでしょう。頼るべき兄を突如殺され、ヘタをすれば自分自身たちも殺されかねない。
混乱する織田家の状況を一変させたのは豊臣秀吉でした。
毛利勢との和解を果たし、備中高松城から京都までやってくると【山崎の戦い】で明智光秀を打ち破ったのです。
他の織田家武将たちが右往左往している中、光秀のクーデターを鎮圧。
次に迎えたのが清州会議。
お市の方の運命を変えるイベントでした。
清州会議は秀吉の一方的勝利ではない!?
天正10年(1582年)6月27日に開かれたこの会議で、中心になった織田家の重臣は以下の通り。
清州会議
・豊臣秀吉
・柴田勝家
・丹羽長秀
・池田恒興
関東に出兵していた滝川一益は参加不可能と診断され、上記4名の主導で話し合いが持たれました。
会議の議題は主に以下の二点です。
・次の織田家当主「三法師」の名代を織田信雄と織田信孝のどちらにするか?
・残された所領をどう分配するか?
一般的によく知られる【清洲会議】は、織田家の跡取りを誰にするか?という内容ですね。
しかし、すでに信長から織田家の家督を譲られていた織田信忠に息子の三法師がいたため、跡取りは三法師で決まり。
その補佐となる名代を織田信雄と織田信孝のどちらにするか?というものだったのでした。
織田信忠も本能寺の変で討たれていたため、その弟たちである信雄と信孝で名代を争ったのです。
単純に秀吉勝利!という会議ではありません。

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用
結局、会議は紛糾し、信雄でも信孝でもなく、織田家古参で信長の側近だった堀秀政に委ねられることになります。
これなら誰も文句はない、という人選でしょう。
しかし、それで我慢ができなかったのが信孝でした。
三法師の処遇や所領について秀吉と揉め、相互不信が高まって、ついには対立。
武力の足りない信孝は柴田勝家に協力を求め、そこで信孝の口利きでお市の方が勝家と再婚となったのです。
あるいは清洲会議の際に秀吉と勝家の話し合いによりお市の方の輿入れが決まったという説もありますが、ともかくこの時期だったことは間違いありません。
いくら年の差婚が当たり前の時代とはいえ、娘と考えたって不思議はない年齢差。
信長死後のドタバタで勝家はとんでもなく忙しかったわけですから、実際のところ夫婦らしく過ごした時間はほぼなかったでしょう。
なにせこの清州会議(1582年)から程なくして秀吉と勝家は【賤ヶ岳の戦い(1583年)】で真っ向からぶつかるのです。
賤ヶ岳から北ノ庄城まで約110km
賤ヶ岳の戦いとは、どんな合戦だったか?
結論だけ申しますと、佐久間盛政の突撃で戦線が動き、さらに前田利家の戦線離脱で秀吉が勝利を得ました。

前田利家/wikipediaより引用
当初、利家は柴田軍の一翼を担っていたので、端的に言えば柴田勝家を裏切って秀吉についたのです。
豊臣秀吉と柴田勝家が織田家の後継を巡って直接ぶつかった――賤ヶ岳の戦いは、前田利家の戦線離脱などもあり秀吉の勝利となりました。
合戦に敗れた勝家は本拠地・北ノ庄城へ帰ってきました。
現在の福井城ですね。
この城は、賤ヶ岳から現在の道路で110km程度しか離れておらず、すぐに秀吉もやってきて包囲戦が始まります。

現在は福井城として知られる北庄城(北ノ庄城)
先鋒は突如戦線を離脱した後、秀吉方についていた前田利家。
他にも黒田官兵衛など賤ヶ岳とその付近で功を挙げた武将たちがたくさんいました。
24日の明け方に秀吉方が本丸にまで押し入ると、夕方には勝家とお市、そして、最後まで残った数十人の配下が自害したといわれています。
お市には、逃げるようにすすめていた!?
実は勝家は、北ノ庄城へ帰ってからお市に「逃げよ」と勧めたといわれています。
しかし、お市自身が「二度も逃げたくない」といって拒否。
勝家と自害する道を選んだのですが、勝家としては「愛する女性に生き延びてほしい」というより「まだ若いし、これからが大事な娘たちもいるから、母親がいなければダメだ」と思ったのではないでしょうか。
愛する妻を見る目というより、大切な元主君の妹という風に思えてきます。
お市が自害を選んだ理由としては「秀吉が嫌いだったから」とか言われたりもします。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
果たしてどうでしょうか。
娘達を直接秀吉に渡したあたり、100%嫌いとも言えない気がします。
本当にイヤだとしたら、何としてでも秀吉ではなく違う武将の下へ落ち延びさせたのではないでしょうか。
信長の存命中から浮気性で有名だった秀吉ですから、女癖の悪さがお市の耳に届いていた可能性は否定できません。
ただ、伝えられているお市の言動から「勝家や秀吉に対してどう思っていたか」をうかがい知ることはできないのが歯がゆいですね。
二人の辞世に同じ言葉「ほととぎす」
辞世の句からも、単なる政略結婚とか、「秀吉が嫌いだから勝家と仕方なく運命を共にした」というわけではない気がします。
二人の辞世に勝家と同じ「ほととぎす」という言葉が入っているのです。
いつも通りの意訳と共に掲載させていただきます。
◆お市
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
【意訳】「そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね」
◆勝家
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
【意訳】「夏の夜の夢のように儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我が名を雲の上へ語り伝えてくれまいか」
辞世に返歌をする、というのは度々ありますが、同じ単語を入れるというのはなかなかありません。
ほととぎすは古来からその声の美しさや「夜に鳴く」という特徴を愛でられてきた鳥で、和歌にもたくさん詠まれています。
もしかするとこの二つの辞世では、秀吉のことをさしていたのかもしれませんね。
どちらが先に読まれたのか。
そもそも本当に二人が詠んだものかという証明ができないのでアレですけれど。
もしお市が先に詠んで覚悟の程を示し、勝家がそれを了承する意味で同じ「ほととぎす」という言葉を入れて自分の辞世を詠んだとしたら……そこには単なる恋慕や夫婦関係ではない、戦国ならではの信頼と愛情があったのではないかな、と思います。
美化しすぎですかね?
いずれにせよ織田家を思う勝家の気持ちと、お市の方の誇りには、一点の曇りもない気がします。
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【参考】
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