慶長8年(1603年)2月12日は徳川家康が征夷大将軍に任じられた日。
このときから始まった江戸時代は一般的に【太平】とされ、治世期間がかなり長いことが特徴ですよね。
ただし、その終わりは1867年の大政奉還とするか、1868年の戊辰戦争スタート(~1869年)とするか、見解が別れたりして、本稿では大政奉還までとしておきましょう。
つまり1603年から1867年で約265年間――。
今回はこの江戸時代全体を一気に読んでみたいと思います!
【江戸時代の区分①~⑤】
江戸時代をスッキリ整理――。
と言っても265年を一気に駆け抜けるには、やっぱり長い。
まずは区分から決めておきます。
【江戸時代の区分】
①家康~家光時代(江戸時代草創期)
②家綱~家継時代(江戸時代安定期)
③吉宗~家治時代(江戸時代変革期)
④家斉~家慶時代(江戸時代衰退期)
⑤家定~慶喜時代(江戸時代幕末)
今回は、上記の区分けに従い、注目度の高い【政治的な流れ】を中心に追っていきますね。
①家康~家光時代(草創期)
関ヶ原の戦いが1600年に勃発。
東軍の徳川家康が勝利を収め、慶長八年(1603年)に家康自身が征夷大将軍になりました。

徳川家康/wikipediaより引用
1614~1615年大坂の陣を知っている我々からしますと、豊臣家を潰す気は満々にも見えます。
しかし、拠点を江戸にし、自らが関白ではなく征夷大将軍を選んでいることからして、家康は「豊臣家を公家として残す」腹積もりだった可能性もありそうです。
当時、豊臣家の当主である豊臣秀頼は10歳の少年でした。公家の当主ならば幼くてもさほど問題はありません。
この時点で豊臣家の血を引く成人した男性はいなかったのですから、秀頼の命や立場が内部的な理由で脅かされるおそれはほとんどなかったといえます。
また、秀吉生前に
「豊臣秀頼と、家康の孫娘・千姫を結婚させて、両家の橋渡しとする」
という約束があり、家康はそれを忠実に守っています。
「死人に口なし」
家康がそう考えていたなら、秀頼と千姫を結婚させる理由はありません。

父の豊臣秀頼/wikipediaより引用
それでも約束を守ったのは、やはり「武力を持たなければ、豊臣家を残してもいい」と考えていたからなのでは……という気がします。
なんせ将軍になって間もない慶長十年(1605年)には、嫡男・徳川秀忠へ将軍職を継承。
豊臣家を滅ぼす気マンマンなら、もっと早い時期にそうしていたのではないでしょうか。
受験では事実だけ押さえておけばOKとされますが、こうした流れを考えておくことが記憶にも繋がると思います。
江戸幕府の許可を得て領地を治めている
豊臣家滅亡の前。
徳川との間で、複数回の折衝が行われました。
そのために苦労をしたのが片桐且元という武将ですね。

片桐且元/wikipediaより引用
しかし最終的に和解へ至らず、大坂冬の陣(1614年)・大坂夏の陣(1615年)で豊臣家は血縁ごと滅亡。
唯一、秀頼と側室の娘が千姫の養女になること、すぐに出家することを条件に助命されました。
彼女は天秀尼となり、長じて鎌倉・東慶寺の住職として勤行に励んでいます。
豊臣家の始末と並行して、家康は関ヶ原の際に西軍に属した大名の多くを改易し、約630万石もの領地を浮かせました。
これを徳川家の家臣や親族、そして東軍に所属した大名へ分配し、日本のほとんどを手中に収めます。
ここでミソになるのが、この厳然たる事実です。
◆江戸時代の大名は、幕府(家康)の許可を得て領地を治めている!
では室町時代以前は? というとこれが違いました。
「先祖代々住んできた土地だから、この土地の支配権は俺達のものだ」という考えが主流。
国衆・地侍にとっては当たり前の考え方ですが、中央集権化を妨げる原因ともなります。
平安時代までの朝廷は、地方統治にあまり興味がありませんでした。
また、鎌倉・室町幕府は、集権化を徹底できず、政治基盤の安定さを欠く一面がありました。
初代将軍である家康がそこを克服。
これにより江戸幕府は安定したとも言えるでしょう。
もちろん、他にも家臣の多さや忠誠心、家臣団を含めた兵力と領地=兵糧の多さなども理由ですが、他の幕府になくて江戸幕府の特徴を一つ挙げるとしたら、ここかもしれません。
また、家康は「五十の手習い」ならぬ「生涯学習」をモットーにした人物でもありました。
70歳を超えても川で水泳をしたり、鷹狩したり(実はめちゃめちゃハード)、大坂の役で陣頭指揮をしていたり。
学業の面でも、最晩年まで商人や僧侶、学者、外国人などあらゆる層から知識を得て、新しい政治形態を作ろうとしています。
外交方針はどうなった?鎖国は?
外交問題も、家康の時代には方向性が大体決まっていました。
大坂の役の前までは、ルソン(フィリピン)やカンボジアなどと親善・通商を図っています。
また、秀吉時代に悪化した朝鮮との関係回復にも心を砕き、対馬の宗氏を窓口としました。
そのおかげもあって、江戸時代を通じ、朝鮮からの使者である朝鮮通信使が、新将軍就任祝いなどの際にやってきています。
ヨーロッパ=キリスト教国については、慎重な方針を取りました。
家康の外交顧問はイギリス人ウィリアム・アダムス。

豊後に漂着したリーフデ号・青い帽子と衣服の人物がウィリアム・アダムスで、赤い人物がヤン・ヨーステン/wikipediaより引用
そのため、当時イギリスと、東南アジア貿易を巡ってライバル関係にあったオランダや、カトリックの布教を強く望むスペインに対しては警戒心を抱いていました。
スペインについては、伊達政宗が家康から許可を得て、自分の家臣である支倉常長を正使とした慶長遣欧使節を派遣しています。
しかし、その間に日本ではキリスト教がご法度となり、またスペインも、実はアルマダの海戦(1588年)以降はの国力下火になっていたことが判明、通商が持たれることはありません。
戦国時代から付き合いの深いポルトガルについては、生糸輸入で日本が大損しないよう【糸割符制度】で統制を実施しました。
そして、慶長十七年(1612年)の岡本大八事件以降、キリスト教は全面禁止という方針が確定(鎖国については段階的に進む)。
同十九年には高山右近・内藤(小西)如安ら三百人前後のキリシタンがルソンへ追放されました。

マニラでの高山右近/Wikipediaより引用
この措置によって職を失ったキリシタン浪人が、大坂の役で豊臣家方についたことも、後に徳川がキリスト教を危険視する一因になったと思われます。
明については、家康の時代には国交回復が困難と考えられました。
そこで長崎での貿易を商人たちに許可し、民間でのお付き合いのみ。
琉球は島津氏に、蝦夷地(アイヌ)は松前氏を窓口としています。
どちらも決して穏やかな方法だけではありませんでしたが……。
秀忠以降の治世について
家康の事績を引き継いだ二代将軍・徳川秀忠は、娘・和子を入内させて朝廷への楔としました。

徳川秀忠/Wikipediaより引用
これを機に外様大名に限らず、徳川家の親族(親藩)や譜代大名についても厳しく統制し、支配権を盤石に固めています。
尾張・紀州・水戸の御三家が確定したのも、秀忠の時代(元和五年=1619年)。
本家を支える分家の有無は、政治の中枢に影響しますからね。
キリシタンについては、より一層厳しく対応しています。
中国船以外の船の出入りは長崎・平戸に限定。
江戸や京都では十人組を設置して、キリスト教がこれ以上広まらないように努めました。
また、日本ではこれまで中国の貨幣を使っている時代が続きましたが、江戸時代に入ってようやく【金貨・銀貨】や【銅銭】を国産するようになります。
他には、交通網の発達も江戸時代初期に始まりました。
東海道や中山道には宿場町が多く作られ、一里塚と植木の設置により旅人の休息を促しています。
また、新たな航路も開かれ、流通が活発になりはじめました。
日本の伝統的な航海術では、星や海図などを使わず、陸地に沿って船を動かしていたのですけれども、そうなると千葉の犬吠埼沖や、淡路島~四国間の鳴門海峡など、難所を通らざるを得ない場合がでてきます。
これらを避けて長距離を航行できる航路が江戸時代に開かれたことは、物流を大きく加速させました。

江戸時代初期の朱印船(角倉船団)/国立国会図書館蔵
モノが流れれば、それを運ぶ人や、売り買いのためのお金も動くことになります。
こうして、江戸時代の都市は各地で発展していったのです。
それは同時に、生産者=第一次産業の従事者よりも、製造・建設業=第二次産業や、小売・サービス業=第三次産業の人々の増加に繋がりました。
よく時代劇に「町人」って出てきますよね?
彼らは、大半が第二次・第三次産業に携わっている人です。
しかし、そのためにある問題がおきます。
第一次産業の従事者が減ってしまうと、農産物や海産物の生産量も減少します。
江戸時代は、全体的に寒冷な気候。そのため飢饉が頻発する一因ともなりました。
各地の大名は、灌漑整備や農地開発、農民や学者は農具の開発や品種改良等をして、それぞれ工夫はしておりましたが……。
家光の時代に進む統制
徳川家光の代になると、大名への統制とキリスト教禁止の動きはさらに強まっていきます。

徳川家光/Wikipediaより引用
幕府の専制ぶりが明らかになった時期ともいえますが、最終目標が「日本という国を安定させること」であれば、これらの施策は苛烈ではあっても不要とはいいきれません。
そもそも民主主義なんて概念のない時代ですしね。
大名が力を持ち続ければ反乱→戦の流れになってしまいますし、キリスト教信者が増加すれば、信仰による恐ろしい団結力が増していきます。
こうした勢力が、仮に朝廷と結びつけば、江戸幕府そのものの存続も危うくなる。
かくして家光の代では、幕府安定のため手綱を緩めるわけにはいかず、次のようなことが起きました。
・島原の乱鎮圧
・日本人の海外渡航&帰国禁止などによる鎖国体制
・キリシタン迫害
また、家光の時代には、幕府内の役職も数多く定められました。
◯◯奉行や老中・若年寄など。
江戸時代によく出てくる役職は家光の代に出てきたものが多くなっています。
また、全国の大名の様子を探る「巡見使」という役職もありました。これにより、幕府の支配が一層進みます。
寛永十三年には【寛永通宝】が発行され、日本国内での貨幣統一に成功。経済の活性化を促します。

寛永通宝/wikipediaより引用
というと、こんな疑問も湧きますよね?
『それまでお金って、統一されてなかったの?』
えぇ、その通りなんです。
ちょっと江戸時代からは離れますが、貨幣経済の浸透は江戸時代のカギでもありますので、少し遡って見ておきましょう。
8世紀、皆さんご存知の【和同開珎】という国産の銅銭が作られ、その後【皇朝十二銭】と呼ばれる十二種類のお金が作られます。
しかし、改鋳ごとに銭の質が悪くなり、信用は失われていきました。
銭の信用=価値は、どう決まるか?
というと、その価値に見合う材質や、発行体(幕府)の信頼度が直結します。
要は硬貨のための資源が必要。
朝廷が、質の良い貨幣を作れなくなると、11世紀には銭よりも反物などの物々交換(物品貨幣)が信用されるようになりました。
平家政権の時代には、日宋貿易で宋銭が大量に輸入され、鎌倉・室町時代まで使われています。
しかし、こちらは日明貿易の断絶や、明において銅の算出(鋳造)が減り、日本に銅銭がほとんど入ってこなくなります。
そのため、中国の銭を真似て作った私鋳銭や、各地の戦国大名によって作られた金貨・銀貨などを使用。
銅銭への信用は再びガタ落ちして、米を物品貨幣とする経済形態が全国で安定するようになりました。
無理やりまとめると
・江戸時代以前
・貨幣は信用されず
・米や金銀でまかなわれた
となりますね。
そもそも全国への支配力を安定させられなければ、統一貨幣を普及させることは不可能です。
江戸時代以前に実行できなかったのも、むべなるかな……。
といっても、江戸では金貨、上方(京・大阪)では銀貨が主流であり、完全に統一されたワケではありません。
あくまで「江戸時代の前と比べれば整備されて便利になった」という感じですね。
他に、藩の中でだけ通用する【藩札】という紙幣もありました。
1999年にあった地域振興券みたいなもので、刷るだけで使えるためほとんどの藩で用いられています。そして借金膨大の原因になります。

備後福山藩の藩札/wikipediaより引用
貨幣経済の統一は、経済の拡大を呼び、社会の構造も変化しました。
織物を始めとした手工業の発展。
それらを売る商人。
物を運ぶ船運業など。
多方面で需要と供給、そして雇用が生まれました。
しかし、第二次・第三次産業の発展は、前述の通り、第一次産業従事者=農民の数がヘリ、依存度の偏重に繋がります。
地球全体が寒冷な時代であり、日本でも度々飢饉が起きるようになったのも先の説明どおり。
これはさすがに幕府や武士のせいではありません。
しかし、冷害に弱い米ばかり作らせ、環境に強い作物を奨励しなかったりしたため、飢饉のたびに農民の逃散や都市部への流入が起き、治安悪化などを招きます。
島原の乱も、キリシタンだけでなく困窮した農民が加わっていたとされます。

「島原御陣図」/wikipediaより引用
ですので、家光の時代に対策に乗り出していればよかったのですが……残念ながらそうはなりませんでした。
なお、参勤交代については「大名の経済力を削ぐため」という点がよく強調されます。
同時に「領主が、地元の実情を把握するため」でもありました。
室町幕府の頃、有力な大名が幕政に参加するために京都に居続けたせいでに、国元でのトラブルが相次いだことを踏まえていたのかもしれません。
②家綱~家継時代(安定期)
家光は大御所(将軍からの隠居)になる前に亡くなりました。
嫡男・徳川家綱はまだ幼く、四代将軍になるまでに紆余曲折を経ることになります。

徳川家綱/wikipediaより引用
その間に親戚の松平定政が勝手に出家したり、「幼君なんてあっという間にひっくり返せるぜwww」(超訳)とナメてかかってきた由比正雪が乱を起こしたり、のっけから不穏な空気の連続です。
しかし、この頃の幕府は、すでに体制ガッチリ。
家綱の叔父である保科正之など、優秀な幕閣がいたおかげで、危機を脱することができました。
それに安心しすぎたのでしょうか。
家綱は成長してもなかなか政治には興味を持たなかったのですが……まあ、そればヤル気のある方に担ってもらったほうがいいすね。
代わって力を得たのが「下馬将軍」と呼ばれる老中・酒井忠清です。
しかし穏やか過ぎる家綱には問題がありました。
子作りにも熱が入らず、このとき早くも将軍後継者問題が持ち上がります。というか家綱以降はその手の問題がないほうが珍しいくらいです。
なぜ、そんなことになってしまったのか?
家光以降の将軍は江戸城からほとんど出ることがありません。
食事は、験担ぎのため季節外れ(=栄養のあまりない)の食材が中心。
かつ調理場から遠い食事所や、毒味のため冷めきった料理など、どうしても不健康な生活習慣に陥りがちな環境です。
将軍家だけでなく、大名全体の問題になりつつあり、そのせいか「後継ぎがいないせいでお家騒動」というケースも増えていきます。
そこで緩和されたのが【末期養子】でした。
大名が亡くなる直前に迎え入れる養子のことで、以前は禁止されていたのです。
「大名なら後継ぎをちゃんともうけておくべきだ! 子供に恵まれないなら事前に養子を迎えておけ!」
そんな考え方が強かったんですね。
しかし、当の将軍に子供がいなけりゃ、そりゃあねぇ。根性論だけでは通じません。
また、幕府が安定したことによって、大名を”存続させる”ことも重要になっていました。
反抗の疑いがある大名を改易しまくっていたので、どこかの大名が断絶した場合、代わりを用意するのが難しくなっていたんですね。
しょっちゅう領主が替わると領民が懐かず、どんどん統治が難しくなるという点も悩みのタネ。
例えば山形藩では、戦国時代からの主である最上家(最上義光)が善政を敷いたため、

直江兼続を追撃する最上義光(長谷堂合戦図屏風)/wikipediaより引用
お家騒動によって改易された後も義光を慕う者が多く、その後の領主がなかなか定着できませんでした。
そこに政治的な理由で領主がコロコロ変わり続けて、幕末に至っています。
今でも山形=最上義光のイメージが強く、江戸時代の他の領主の影が薄いのはそういう理由です。
山形藩の他の藩主で有名なのは、保科正之くらいでしょうか。
それも7年くらいの短いものでしたし。
有能だった前半の綱吉
家綱の次の将軍については、鎌倉時代の例にならい、
「皇族から迎えよう」
という意見もありました。
しかし、その後のオチを考えると不吉すぎること、実子はいなくても実弟はいたことから、
「皇族に頼るより、弟君に将軍をやっていただけばいいじゃないか」
という意見が優勢となります。
家綱の弟が、“犬公方”こと五代将軍・徳川綱吉でした。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
家綱と綱吉、そして後述する六代将軍・家宣の父である綱重は、それぞれ異母兄弟です。
兄弟間のエピソードを聞かないので、幼い頃からあまり付き合いはなかったのかもしれませんが。
さて、その五代将軍・綱吉。
前半と後半で評価が大きく異なります。
綱吉は異母兄である家綱とは真逆で、自分の考えをハッキリ表す人だったからだと思われます。
その証左となるのが、家綱の時代に一度決着していた【越後騒動】の裁判やり直しです。
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越前松平家の越後騒動がメチャクチャだ!最後は徳川綱吉も絡んで切腹だ!
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詳しくは上記の関連記事をご覧いただくとして、簡潔にオチだけを述べますと
「綱吉自らが判決を下す親裁で、前の判決を完全にひっくり返した」というものでした。
綱吉は儒学に深く傾倒し、皇室と朝廷を尊び、信賞必罰を明確にすることを柱としていたのです。
幕府のお偉いさんである大目付・目付・三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)を直接任じたり。
大老・酒井忠清を罷免して堀田正俊を据えたり。
はたまた財政・民政を預かる「勝手掛老中」に任じるなど、「俺は兄上とは違うぞ」ということを行動で示しました。
また、就任から間もなく、現代の公務員でいえば服務規程にあたる掟を出し、直接徴税を行う代官の素行を調べ、よろしくない者には厳罰を与えています。
武士は食わねど高楊枝
幕府の財政難については、幕末によく取りざたされます。
これ、実は家綱時代から江傾き始めていました。
別に家綱が浪費したわけではなく、日光社参の費用や、明暦三年(1657年)に起きた【明暦の大火】の被害に対する復興費用、それに伴う貨幣の鋳造などで、大金を使わざるを得なかったのです。

明暦の大火を描いた戸火事図巻/wikipediaより引用
また、貨幣経済が進んでお金での支払いが増えたことにより、米の価値が相対的に下がってしまいました。
武士は基本的に米でモノを買っていましたが、だんだん市場のほうが
「米じゃなくてお金で払ってくださいよ」
というようになったのです。
そのため一度米を売ってお金を用意し、それから買い物をするプロセスが必要になってきたのです。
米を売ってもさほど高額にはなりません。つまり、武士はどんどん貧乏になっていくしかない。
それでなくても、武士には伝統的に「金は卑しいもの」という価値観があります。
伊達政宗から「ウチの大判(金貨)を直接手にとって見て良いのだぞ」と上杉家家臣・直江兼続に言った時、「私の手は采配を握るための大切なものなので、このような汚らわしいものを触るわけにはいきません^^」(超訳)と返答された……なんて話は、その代表例でしょう。
「武士は食わねど高楊枝」なんて狂歌があったくらいですから、その気風は大きい。
ただ、この状態で飢饉が起きでもすれば、そりゃもう悲惨なわけで……。

天明飢饉之図/wikipediaより引用
綱吉も当然、これらの財政難や武士の懐事情悪化に歯止めをかけるため、数々の施策を行います。
世の中の気風を質素倹約に持っいてくため、華美な衣服や初物取引を制限する法律を発令。
綱吉自身も贅沢な趣味はありません。
若い頃から「代官は自ら仕事に励み、下へ示しを付けなければならない」というようなタイプだったので、もともと謹厳な人なのでしょう。
唯一の楽しみは、能です。
それでも役者を買い漁るようなことはなく、自分で舞ったり大名に舞わせたりするほうが好きだったそうで、将軍としてはリーズナブルな趣味ですね。
というか、そもそも徳川将軍には贅沢好みな人はいないです。側室と子供がめっちゃ多かった人はいますけど。
しかし、綱吉の厳格ぶりが悪い方向にブッちぎってしまったのが、かの悪名高い【生類憐れみの令】ですね。
数度に渡って発布された法律をまとめてそう呼びます。
なぜ、数回にもわたって出されたのか?
「綱吉が息子に恵まれず(いたけど夭折したため)、僧侶に対策を訪ねたところ、『貴方様は戌年のお生まれなので、犬を大事になさいませ』と言われたから」なんて話だとされています。
これは、武力で国を治める【武断政治】から、政治や法律で国を治める【文治政治】への転換にもなりました。
最近では「悪いとは言い切れない」という見方もありますね。
生類憐れみの令をキッカケに「命を大切にする」という考え方をジワジワと浸透させたのです。
つまり、それ以前は命がかなり粗末に扱われていたんですね。
元禄赤穂事件と天災続く
綱吉の後半生に起きた元禄赤穂事件は、文治政治の象徴ともいえる事件です。
事件そのものはこんな感じ。
・赤穂藩主の浅野内匠頭長矩
・高家(礼儀作法担当)の吉良上野介義央に江戸城内で切りかかり切腹
・浅野家は改易
・武家の慣習である”喧嘩両成敗”でなかったことに腹を立てた元赤穂藩の藩士=赤穂浪士たち
・『主の仇を取って公正にすべき』
・吉良上野介の家に討ち入りして、目的を果たす
法を尊び、暴力を嫌う綱吉にとって、この事件は全く許せないことでした。

『忠臣蔵十一段目夜討之図』(絵・歌川国芳)/wikipediaより引用
しかも浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に切りかかった日が悪かった。
朝廷からの使者を江戸城でもてなす儀式の日程中だったのです。
もともと朝廷を重んじている綱吉にとっては、「法律違反・暴力沙汰・朝廷絡み」という、スリーアウトチェンジものだったわけです。
チェンジしたのは赤穂藩主の首(物理)でしたが……。
また、綱吉の後半生には地震や火事、飢饉などが頻発したことも、暗君呼ばわりされた一因かと思われます。
当時はこういった天災を「為政者がダメだから、天が罰を与えているのだ」とみなしていたからです。
進む経済圏の拡大&活性化
家綱~綱吉の時期は、江戸が世界有数の大都市になった時期でもありました。
江戸~大坂間の航路(西廻航路・東廻航路)を開通。
菱垣廻船(生活用品全般)や樽廻船(主に酒類)が活発に行き交うようになりました。

菱垣廻船の復元船「浪華丸」/photo by I, KENPEI wikipediaより引用
江戸と大坂までノンストップで航行するわけではないので、その間で立ち寄る各地の港でも人や物が出入りし、経済が活性化します。
こうなると大事になってくるのが共通した“基準”です。
商人たちは各所の商品相場を記録しつつ、より効率化するため度量衡に使う枡の大きさや錘(おもり)、反物の長さや幅などの統一が図られました。
また、寛永通宝の大量鋳造に伴い、幕府は、古銭との混合使用を禁じるようになりました。
室町時代以前は世情が安定せず、このような経済的統一も不可能でしたが、江戸時代になって幕府が安定し、ようやく可能になったといえます。
これも中世→近世での大きな違いですね。
また、農地開発も活発に行われました。
・税金を増やすため
・人口増加への対策
そんな観点から次々に開発されていったのですが、やりすぎてしまい、寛文六年(1666年)には乱開発の禁止と荒廃地の植林が幕府から言い渡されています。
綱吉の時代である元禄期(1688年~1704年)には、多くの農業書も出され、効率の良さも追求されました。
いずれも1640年~1643年に起きた【寛永の大飢饉】を踏まえてのことかもしれません。
ただ、さほど効果はありませんでしたが……。
他に綱吉の後半生にあたる時期のポイントとしては【元禄文化】というところも大事ですね。
社会がうまく行ってないのに文化が発展する――なんだか珍妙な感じがしますが、心理学で言うところの「昇華」かもしれません。
昇華とは、ストレスを芸術や学問等への熱中に向けることを指します。
というのも、後述する【化政文化】も似たような世情でしたので。
徳川家宣【閑院宮家】の創立
綱吉には息子がいましたが夭折し、やはり後継者問題が持ち上がりました。
このときは綱吉の甥で甲府宰相と呼ばれていた徳川家宣(当時は綱豊)と、紀州藩主かつ綱吉の娘婿・綱教(つなのり)が候補に挙げられます。
最終的には、血筋の近さと実績から、六代将軍は徳川家宣となりました。
家宣は将軍継承後、生類憐れみの令を即座に廃止。
綱吉の側用人として権力を持っていた柳沢吉保を退け、同じような立ち位置に間部詮房と新井白石を就けました。
傾く一方の財政に対し、改鋳や倹約令の発布などを精力的に行っていきますが、効果が上がり切る前に家宣自身が亡くなってしまっています。
家宣のやったことの中で、見逃せない功績としては、宝永七年(1710年)の【閑院宮家】の創立です。
東山天皇の第七皇子・秀宮が直仁親王として創始。
直仁親王の子・祐宮が光格天皇として即位して以来、現在の皇室にまで続いています。
これは、家宣の正室が近衛煕子であり、その実家である近衛家の後押しもあったからだと思われます。
宮家創設にあたっては、幕府からも費用の一部が献上されました。
綱吉の時代に朝幕関係が良好に向かっていたので、家宣もそこを引き継ごうとしたのでしょう。
続く七代・徳川家継は幼くして将軍となり、生来の病弱さも相まって、顔なじみで父親代わりだった間部詮房の専横がますます著しくなりました。

間部詮房の木像(浄念寺所蔵)/wikipediaより引用
また、家宣の側室で家継生母である月光院 vs 家宣の正室・天英院(近衛煕子)の対立、そして将軍墓所への代参にかこつけて不純異性交遊(婉曲表現)に走る女中が多々いた事などから、大奥の代表格だった御年寄・絵島のスキャンダルに始まる絵島・生島事件が発生。
絵島は流罪となりました。
絵島の性格や後ろ盾がない出自からして、絵島本人が男遊びをしていたとは考えにくい……それでも重役が一人クビになると、だいたいのことは収まりますので。
片腕だった絵島を失って、月光院の政治的権力はほぼゼロになり、天英院が名実ともに大奥の主の座を取り戻しました。
次の将軍が「暴れん坊将軍」でお馴染みの吉宗なのですけれども、彼を将軍に推したのは天英院なのか、月光院なのかはっきりしていません。
この二人、絵島・生島事件からしばらくして和解していたらしいので、余計わかりにくくなっています。
まぁ、そもそも吉宗が将軍になるまでの経緯がきな臭すぎるのですが、それはさておき、吉宗の治世を見てまいりましょう。
③吉宗~家治時代(変革期)
一気に進んできました。
もし受験生の方がおられましたら、そろそろ暗記が辛くなってくる時期です。
「どの将軍が」
「どの順番で」
「何のために」
何をやったのかを一つずつチェックしていきましょう。
まずは八代将軍・徳川吉宗の時代です。
六代・家宣&七代・家継が早くに亡くなり、吉宗が将軍になった頃の幕政は混乱しつつありました。
そもそも吉宗が将軍に選ばれたのも、紀州藩主時代に
「前藩主・現役藩主が立て続けに亡くなり、相次ぐ葬儀代その他で藩財政が火の車以上の最悪っぷりだったのを、一人で立て直した」
という点が高く評価された……というのが大きな理由です。
吉宗は自分の能力を証明するためにも、就任早々に財政再建に取り組まなければなりませんでした。
それが【享保の改革】と呼ばれる一連の施策です。
数年刻みで次々に新しい用語が出てくるので、年号や詳細はまた後日するとしまして……ざっくり並べるとこんな感じです。
・火事が起きた際の被害を最小限に留めるため、江戸に【町火消】を設置
・市民の声を直接聞くために【目安箱】を設置
・参勤交代の負担を軽減する&幕府の米蔵を満たすための【上米の制】
・能力ある武士が服装などで面子を保てるように、幕府が補助を出す【足高の制】
・数少ない改鋳の成功例【元文の改鋳】
・実質的にこれ以降の基本法となる【公事方御定書】
なかなか多いですね(・_・;)
吉宗自身は、嫡子・徳川家重の健康問題などの懸念があったため、60歳を超えたあたりで早めに大御所となり、家重の後見という立場に落ち着きました。
実際には、吉宗の権力は亡くなるまでそのままでしたけれども。
なぜかというと、家重には言語不明瞭や排尿障害と思われる症状があり、常に健康な状態で政務に取り組めるとは限らなかったからです。
これらは、幼い頃に罹った脳性麻痺の後遺症と考えられています(成長してからの深酒も影響したかもしれません)。

徳川家重/wikipediaより引用
家重の言葉を直接解することができたのは、側近の大岡忠光だけだったともいわれています。
しかし、家重は正室の増子女王(ますこじょおう・伏見宮邦永親王の四女)との関係は良好で、一緒に船に乗って隅田川を遊覧したり、子供も授かっていました。
少なくとも、増子女王とは意思の疎通ができていたのでしょう。
残念ながら、この子供は早産のためか産まれてすぐに亡くなってしまい、増子女王自身も産後の声立ちが悪く、出産から一ヶ月もせずに亡くなってしまっています。
家重はその後も色好みの傾向は持ち続けたものの、正室を迎えることは二度となかったとか。
このことからすると、家重の言語不明瞭は「発語に問題があった」のではなく、「声帯もしくは喉に何らかの疾患を抱えていたために、声が小さい・通りにくくなっていた」というものだったのではないか……という気がします。
完全に私見ですが、ごく間近で家重の言葉を聞いていたであろう忠光だけが意を解したことも理由がつきますし、忠光に野心がほとんどなかったというのも納得できます。
「近づきさえすれば家重の言いたいことがわかる」
そうであれば、忠光自身の能力が高かった理由にはなりませんし、まともな人なら偉ぶりたいとは思わないでしょう。
家重の治世では、父のやってきた改革をさらに推し進めるべく、幕府の財政監査を厳格にしたり、酒造の規制を緩和して消費や流通を促進しようとしたりしていました。
しかし、うまくいきません。
世間では悪評のほうが高く、吉宗の改革で行われた増税に対し、農民が一揆を起こすようになっています。しわ寄せが来たんですね。
さらに、家重の在職期間には飢饉や水害もまた多く、割りを食った感があります。
岐阜の木曽三川で起きた【宝暦治水事件】はこの時期のこと。
また、京都で尊王論者と公家が結託し、家重の将軍罷免まで計画していた【宝暦事件】も起きています。
家重がしっかり物を考えることができていたとしたら、幕閣からも町人からも公家たちからも蔑まれて、さぞ辛かったでしょう……。
田沼を重用した家治の治世
宝暦十年(1760年)に大岡忠光が亡くなると、家重は嫡子・徳川家治へ将軍職を譲ります。

徳川家治/wikipediaより引用
そしてその翌年に亡くなりますので、元から体調に不安を感じていた可能性もありますね。
「自分の意を正しく解してくれる者がいなければ、政治をやっていけない」
その判断ができていれば、家重の頭がきちんと働いていた証左になります。
十代・家治は幼い頃から聡明で、祖父である吉宗にも期待されていました。
一説には、家重を経ず、直接家治に将軍職を譲る事も考えていたとか。
しかし、長じてからの家治は、あまり政治には積極的ではありませんでした。
父の意向により、田沼意次を登用して御用人→老中に任じてはいますが、次第に政治への関心を失っています。
大きな功績としては、大奥予算の三割を削減したことでしょうか。
家治は徳川将軍の中でもかなりの愛妻家で、正室の倫子女王(ともこじょおう・閑院宮直仁親王の六女)ともかなり良好な関係でした。
二人の間には娘が二人産まれていますが、残念ながら両方とも夭折しています。
また、倫子女王自身も34歳で亡くなっており、家治は側室を勧められてもなかなか承知しなかったとか。
さらに、側室から男子が産まれた後は全く関心を示さなかったともいわれており、倫子女王との仲の良さがうかがえます。
家治からほぼ全面的に政治を任された意次は、災害時でも財政を逼迫させないための施策を開始しました。

田沼意次/wikipediaより引用
モットーは重商主義。
鉱山開発を進め、少しでも農産を安定させるための耕地開発(蝦夷開発・印旛沼干拓)などもしています。
これによって、天候にほぼ完全依存する農産物の収入割合を下げ、お金を直接幕府に入れることで、財政再建を目指したのです。
あるいは税の多様化をはかって、収入経路を増やそうともしました。
前述のように社会構造が第一次産業から他へシフトしているので、様々な商工業やサービス業に課税することは、現代であれば当たり前の考えでしょう。
しかし、その成果が一般にも感じられるようになる前に、
・浅間山の噴火
といった大災害が発生。
綱吉時代同様に「為政者がダメだから天罰が下ったんだ」という世論が主流になってしまいました。
意次については「こいつのせいで贈収賄が横行したから悪い」というように語られがちですが、別に意次だけが受け取っていたわけではありませんし、受け取らなければ受け取らないで悪評を立てられるおそれもありました。
後ろ盾が将軍以外にほとんどない意次としては、立場を悪くしないための収賄でもあったでしょう。
さらに、意次が名誉挽回のための実績を上げる前に、最大かつ唯一の後援者である家治が亡くなってしまいます。
死因は脚気衝心(脚気による心不全)とされていますが、このタイミングだと何だかイヤーな感じがしますね。
意次は真綿で首を絞められるように、領地を次々に没収され、ついには老中の地位も奪われて隠居謹慎となりました。
一つ空いた老中の席には松平定信が入り、十一代将軍には家治のいとこ・一橋治済の息子である徳川家斉が就任します。

徳川家斉/wikipediaより引用
④家斉~家慶時代(衰退期)
「幕末に向かうまで、幕府がもがいていた時期」
この時期を一言でまとめると、こんな感じでしょうかね。
幕府への不信と財政難が悪化する一方で、それでも踏ん張り続けます。
どの藩もこのあたりになると世継ぎ問題やら財政難やら飢饉やらで、幕府に反抗するどころではなかった……というほうが正しいかもしれません。
田沼意次の政治を否定した松平定信は、厳格にすることで世の中を引き締めて幕政を立て直そうとしました。
【寛政の改革】と呼ばれる一連の改革で、棄捐令や寛政異学の禁などが有名ですね。

松平定信/wikipediaより引用
しかし、相次いだ災害による年貢等の税収減に対応しきれず、数年で失脚。
また、ロシアやアメリカから通商を求める使者が送られるようになったため、国境の測量や防備強化が意識されはじめたのもこの時代でした。
この頃はまだ鎖国を継続する考えが強く、異国船打払令=「外国の船は全員攻撃しておk」という法が出されています。
日本地図が持ち出されそうになったことに始まる【シーボルト事件】も、「やはり外国人と親しくするのは危険」という考えに結びついたかもしれません。
ただし無策というわけではありません。
定信が失脚した後は蝦夷地の測量や、これまで松前氏に一任していた蝦夷の支配権を一時幕府の直轄としていました。
後者については、さほど間を置かずに松前氏に戻していますが……そういうどっちつかずなところが、いかにも混乱期ですね。
また、寛政の改革に携わった幕閣がほとんどいなくなった後、実権を握った老中・水野忠邦の行った【天保の改革】がマズすぎました。

水野忠邦/wikipediaより引用
度重なる倹約令や、収入を補うための上知令も効果が上がらず、苦し紛れの改鋳乱発でさらに経済は悪化。
さらに、歌舞伎や出版物などの娯楽に対する過干渉は、民衆から幕府への大不評と不信を招きました。
ついでに1833年からは【天保の大飢饉】が発生。
やっぱり「幕府がダメすぎて天罰が下っているんだ! つきあわされる俺達の身にもなってみろ!」と民衆は激怒します。
一方で、幕府はヨーロッパへの対応を改めはじめていました。
西洋の砲術や兵器等を導入した軍事改革とともに、異国船打払令を撤回してやや柔和な方針にしています。
キッカケは1840年のアヘン戦争です。
大国・清がイギリスに負け、日本でも今までと同じように「西洋人は全員ブッコロ!!」と言い続けることはできないと感じたのでしょう。
江戸湾(東京湾)の防備もこの時期から意識され始めています。
家斉は天保八年(1837年)に大御所となり、十二代・徳川家慶に将軍職を譲りました。

徳川家慶/Wikipediaより引用
が、天保十二年(1841年)に亡くなるまで幕政の実権は握り続けています。
あまり親子仲が良くなかったことに加え、家慶自身に政治的能力が欠けていたからだとされています……(´・ω・`)
広がる国外への好奇心
将軍家の不仲。
度重なる不況と天災。
こうした世情を受けて、幕府の政治能力を疑い始めた市民も多くなりました。
天保年間に江戸で蘭学が盛んになったのも、そうした背景の影響があったのかもしれません。
ちょうど戦国時代に新たな救済を求めた庶民が、キリスト教に望みを抱いたように。
この頃はごく一部の地域における隠れキリシタンを除いて、キリスト教を信じている日本人はいませんでした。
それでも幕府は蘭学の影響に危機感をいだきました。
天保十年(1839年)に【蛮社の獄】で蘭学を取締り、儒教(朱子学)を改めて正当な学問であるとしたのです。

蛮社の獄で処罰された渡辺崋山/wikipediaより引用
しかし禁じられれば禁じられるほど人の欲は反発して燃え上がるもの。
蘭学、そして開国への関心は学者や地方武士などの間で広がっていきました。
幕府もアヘン戦争の件から「あまり強硬路線でいると、清のように力ずくで開国させられるかもしれない」という懸念は抱いていたようです。
この頃の老中首座・阿部正弘が比較的融和路線だったこともあり、天保十三年(1842年)に【薪水給与令】を発令。
「開国はしないけど、船の燃料や水の補給は協力するよ」
そんな方針を西洋の国々に示しています。
実際、幕府も海防や開国の可能性は早くから感じていました。
幕末フィクションでは、とかくマヌケに描かれがちですが、幕府は割と十分な対応をしていたのです。
しかし、それから2年後にオランダ王から、こんな勧告が来ます。
「今のうちに開国したほうが、戦争にならないと思うよ。君たちが伝統として鎖国をしてきたことは、ヨーロッパの国は皆知ってるけど……。よく考えてね(´・ω・`)」(超訳)
外国からは薪水給与令では物足りないと思われていたのですね。
まぁ、西洋諸国は「少なくとも市場ゲット」という見方もできますしね。
アメリカの場合は「捕鯨船の拠点を得る」という目的がありました。当時、欧米諸国はクジラの皮下脂肪や骨・内臓から得られる鯨油を照明や工業などに使っていたからです。
また、女性のスカートの後ろ側をふっくらさせたまま保つ「バッスル」という枠を作るのにも、鯨の骨を用いていたことがありました。
それでいて肉はあまり食べなかったそうですが……。
ペリー来航
嘉永五年(1853年)、アメリカからペリー率いる船団が浦賀に来航しました。
実は、これ以前にもジェームズ・ビドルというアメリカ人が浦賀に来たことがあります。
彼は急遽日本との交渉を行うことになった臨時の担当者のような立場で、かつ比較的大人しいタイプだったので、幕府も事態をそう重くは見ていなかったようです。
しかし、ペリーは違います。
詳しくは、以下の【関連記事】にで述べていますが、来日までに当時アメリカで得られる日本の資料をかき集め、研究に研究を重ねて日本人対策を練り上げていました。
それが見事にクリーンヒットし、幕閣もいよいよのところまで追い込まれます。
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ペリーはアメリカで無名な存在だった!? めちゃめちゃ苦労して進めた開国交渉
続きを見る
よくよく考えてみると、日本が歴史的に、国外の大国と濃厚に接触するポイントは限られていました。
元寇は国家の危機ではありましたが、実際の戦場は北九州だけ。
ロシアやアイヌとの接触は、基本的に蝦夷地周辺です。
京都には朝鮮通信使が立ち寄ったり、舶来品の一つとして象が天皇に謁見したり、渤海国の使者がはるばるやってきたことはあったものの、全て平和な目的です。
つまり、幕末のペリーのように「政治の中心地に、武装した外国人が直接やってきた」ことは、長い日本の歴史の中でも初めてのことだったわけです。
まぁ、ペリー来航前にも全国各地で外国船は警戒されており、前述のように幕府でも心構えはありましたが、実際に来ると庶民や各藩の反応はそう簡単ではないですわな。
幕府としては、ペリーへの対応を模索している最中に、徳川家慶が急死。
少しだけ時間的な余裕ができます。
しかし、他にもフランスのインドシナ艦隊が長崎へ来たり、琉球へも開国を求める圧力がかかったり、イメージ的にはまさに四面楚歌というやつです。
江戸時代の文化史でよく出てくる【化政文化】は、こういった混乱の最中である1804~1830年が最盛期です。
「化政文化は黒船来航の20年くらい前」と覚えておくのがわかりやすいですかね。
⑤家定~慶喜時代(幕末)
大河ドラマ等でもよく取り上げられている時代。
何となくイメージできる人も多いのではないでしょうか。
しかし、この頃はほぼ一年刻み、あるいは同じ年にいくつも重要事件が起きていた時代でもあり、かなりややこしいところです。
受験生の方は、年号だけでなく順番もきっちり押さえるのがコツ。
先に、家慶時代の後半あたりからの年表を出しておきましょうか。
同年の出来事については、左側が先に起きたものです。
1842年 薪水給与令
1844年 オランダ王からの開国勧告
1846年 アメリカ人ビドル来日
1853年 ペリーが浦賀に来航、家慶死去→家定将軍就任、プチャーチンが長崎に来航
1854年 日米和親条約
1855年 安政の大地震
1856年 ハリス着任
1858年 日米修好通商条約、家定死去→家茂将軍就任、戊午の密勅、安政の大獄開始
1860年 桜田門外の変
1861年 和宮が家茂へ降嫁、文久遣欧使節が出発
1862年 坂下門外の変、生麦事件
1863年 浪士組(新選組の前身)結成、家茂上洛、下関戦争(1回目)、薩英戦争、八月十八日の政変
1864年 池田屋事件、下関戦争(2回目)、第一次長州征伐
1865年 対外条約への勅許
1866年 薩長同盟、第二次長州征伐
1867年 坂本竜馬暗殺、大政奉還、王政復古の大号令
1868年 戊辰戦争開始
1869年 戊辰戦争終結
幕末作品ではド定番のイベントが並びますが、これをバカ真面目に暗記しろ、と言われてもしんどいですね。
下関戦争については「馬関戦争」と呼んだり、1863年のほうを「下関事件」、翌年のほうを「下関戦争」と区別したりする場合もあるなど、表記がまだ統一されてません。
ここでは1回目・2回目とさせていただきました。
簡単に流れだけ押さえておきましょう。
徳川家慶の急死により、急遽十三代将軍になったその息子・徳川家定。
しかし、彼は幼い頃から病弱すぎて子供がおらず、当初から後継者問題が持ち上がっていました。

徳川家定/wikipediaより引用
つまり、この時期の幕府は
「西洋諸国への対策」
「治安と経済回復」
「将軍継嗣問題」
という、三つのドデカイ課題に対応しなければならなかったんですね。
この中で、最も簡単に解決できそうだったのが、皮肉にも対外政策でした。
1854年に日米和親条約を結んだのを皮切りに、幕府はイギリスやロシア、オランダとも条約を結び、開国の方針を決定。
タイミングの悪いことに、1855年には安政の大地震が発生します。
例によって天災は為政者の責任でもあります。
幕府の信頼は転がり落ち、この頃には、
「異人なんぞと付き合いを始めたから、災いが入ってきたんだ!」
「天が”外国なんかと付き合うな”とおっしゃっているに違いない!」
というように捉えた人も少なからずいたようです。
あまりにもタイミングがかみあってますからねぇ……。
しかし、鎖国継続を望んでいた水戸藩などの武士や、生粋の外国人嫌いだった孝明天皇には許しがたいことでした。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
といっても京都の皇室・貴族は海外の諸事情など一切把握しておらず、「外国人なんて嫌いだから」レベルの話で、現実問題、対処できるわけがありません。
さらに、家定もまた就任から数年で亡くなり、次は紀州藩主・徳川慶福が、徳川家茂と名を改めて十四代将軍に就任。
徳川家の親族である御三卿のひとつ・一橋家には、家茂よりも年長の慶喜がいて、ここに薩摩なども絡んでいましたが、結局は、前将軍との血筋が近い家茂となります。
家茂は、幼少の頃から聡明で知られていました。
ただ、当時はまだ10代の少年。実務を全て自らの采配でやっていくのは難しい年頃です。
綱紀粛正と幼君への反乱防止のためか、ときの大老・井伊直弼は、厳しく忙しない政策を採りました。

井伊直弼/Wikipediaより引用
【安政の大獄】はその代表格です。
政治をかき乱す一橋派の粛清を行ったんですね。
薩長を中心に描く幕末フィクションですと、とかく残酷な所業に描かれがちなこの直弼の行動ですが、彼からしてみれば邪魔ばかりしてくる一橋派を遠ざけたというところでしょう。
幕府も無策ではありません。
少しでも西洋とマシな関係を築こうと、新見正興らをアメリカに送ったり、福沢諭吉が参加したことで有名な文久遣欧使節を派遣したり……。
しかしその間に生麦事件や薩英戦争、下関戦争など、西洋諸国とのドンパチが始まり、結果、薩長では倒幕への舵取りが進みます。
そして最後の大政奉還ですね。
直後に始まった戊辰戦争の経緯や、明治時代になってからの藩閥政治、さらに大戦への暴走を考えると、この政権交代が「よかった」とは言い難いかもしれません。
この後の詳細は以下の記事をご参照ください。
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政治の流れだけを追うと、いささか堅苦しく長い江戸時代。
しかし、冒頭で述べたように、日本史の中では特に「寄り道」が楽しい時代でもあります。
例えば大奥や町人などは人気のあるカテゴリですよね。
これらを扱ったドラマや映画、小説、マンガは非常に多く、現在も大河ドラマ『べらぼう』で田沼意次~松平定信の時代がクローズアップされています。
中央の政治事情と地元の歴史を見比べて「この大事件が起きていた時、ウチのお殿様は何かしたのかな?」なんて見方をしてみるのも面白いかもしれません。
各大名家のお家騒動なども、物騒ながらにツッコミどころや教訓が見えてきたりします。
また、幕末にやってきた外国人の目から見た日本の記録には、冷製で客観的な記述も多く、斬新に感じられるかもしれません。
堅苦しい話に飽きてしまったら、そういった切り口で触れてみるのも良いのではないでしょうか。
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【参考】
国史大辞典「慶長・元和期」「寛永・慶安期」「寛文・延宝期」「天和・貞享期」「元禄・宝永期」「正徳期」「享保・寛保期」「享保の改革」「宝暦・天明期」「寛政・享和期」「文化・文政期」「天保・弘化期」「嘉永・安政期」「文久・慶応期」













