鎌倉時代を代表する女性といえば北条政子。
生前は嫉妬深かったとされる逸話や、承久の乱での大演説など、なんとなく“キツイ女性”というイメージの方が多いかもしれません。
日本三大悪女の一人とも言われたりしますしね。
しかし、生涯を追いかけてみると、必ずしもマイナス面ばかりの人物でないことを感じさせられます。
特に昨今は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で小池栄子さんが、逞しくも賢い女性を演じられ、その印象が大きく変わりつつありますよね。
史実においては、夫の女癖に厳しい一面は確かにあるけれど、不幸な身の上の者たちには慈悲深い政治家――。
嘉禄元年(1225年)7月11日はそんな北条政子の命日。
その生涯を振り返ってみましょう。

絵・小久ヒロ
時政の長女・北条政子
北条政子は保元2年(1157年)、伊豆の豪族・北条時政の長女として生まれました。
北条氏は現在の東海道線三島駅から東南にある北条を発祥とする一族で、領内の狩野川流域が肥沃な土地だったため、かなりの財力を持っていたと考えられています。
そんな彼らの運命が動き出すキッカケは永暦元年(1160年)。
【平治の乱】に敗れた源義朝の三男・源頼朝(数え14歳)が流されてきました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
当時の政子は4歳。
彼らの年齢差についてはあまり触れられることがありませんが、10歳も離れていたんですね。
流罪になったといっても、頼朝は一つ所に監禁されていたわけではなく、かなり自由な暮らしをしていました。
京の乳母や比企氏の支えもあり、生活の心配もなかったようです。
ある意味、悠々自適だったことでしょう。北条氏を含め、伊豆・相模など現地の土豪たちと一緒に狩りを楽しんだり、一族の菩提を弔うために読経したりしていました。
その中で時政とも知り合い、いつしか政子と深い仲になったと思われます。
とはいえ、娘と流刑者が結婚するというのは、父親としてはあまり歓迎したくない状況。
時政は慌てて政子を別の人へ嫁がせようとしましたが、政子が抜け出して頼朝のところへ逃げたので、諦めて二人の仲を認めたといわれています。
そういった経緯のため、政子と頼朝の結婚がいつだったのか、具体的な日時ははっきりしていません。
長女・大姫が治承2年か3年(1178・1179年)生まれとされているため、それより前だったことは間違いないのですが。
頼朝の挙兵
長女誕生からさほど経たない治承4年(1180年)4月、頼朝の下へいわゆる【以仁王の令旨】が届きます。
この頃には北条政子との仲は認められ、時政との仲も親密なものになっていました。
しかし、以仁王が敗れ、それについた源頼政も敗死。

以仁王/wikipediaより引用
続いて平家打倒に動いた武士が追討されると聞いたため、すぐには兵を挙げず、関東の武士たちへ協力を呼びかけて時節を待ちます。
そして治承4年(1180年)8月、頼朝が挙兵します。
まずは伊豆の山木兼隆を討ち取ると、流刑生活中に親しくなった武士たちとも一致団結することができ、とりわけ時政とは腹を割って話す間柄だったとされています。
楔となったのが、言わずもがな政子。
旗揚げの時期、政子はただひたすら伊豆で頼朝の無事と戦勝を祈っていたようです。
しかし【石橋山の戦い】で、頼朝軍は平家軍の大庭景親・伊東祐親に敗北。

伊東祐親像
頼朝はもちろんのこと、従軍していた北条時政・北条宗時・北条義時も行方不明になってしまったと聞き、政子は気が気ではありませんでした。
残念ながら兄の宗時は逃げる途中で討死にしてしまいます。
頼朝・時政・義時はなんとか逃げ延び、いったん安房へ渡りました。
頼朝は安房へ向かう船に乗る前、政子に無事を知らせる使いを出したといいます。
鎌倉を都市に発展させた八幡宮
体制を立て直すため、頼朝は関東の武士たちへ使いを飛ばし、改めて味方になってくれるよう工作し始めました。
その一環として、時政や義時は再び海を渡って甲斐・信濃などの武士や豪族を説得したと考えられています。
おそらく北条政子には知らされていたでしょう。
さすがの彼女も、そういった状況では駆けつけられず、夫婦の再会がかなったのは、頼朝が鎌倉入りをした後でした。
頼朝は、鎌倉の人々に受け入れられるように、まずこの地で信仰されていた鶴岡八幡宮を源氏の氏神として敬いました。
当時は海岸近くにあった八幡宮を、現在の小林郷へ移すと同時に、大規模なお宮を建設。
頼朝自身の屋敷や大姫のための家などもその周辺に建てたので、御家人たちも競って周囲に屋敷を構えました。
これにより鎌倉は、東国一の都市へ発展します。
なんせ、それまで都から来た武将といえば、関東で朝敵を討伐しては帰っていくだけの存在でした。
しかし、頼朝は地元の神社を敬い、屋敷を建てたことによって、「私はこれからこの地に根付く覚悟だ」と示したのです。
これが関東武士たちの心を大きく掴みました。
元々、東国の武士は、頼朝の祖先である源頼義・源義家の活動により、源氏には何かしらの縁を持っています。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用
ここではその発端である前九年の役と後三年の役には触れませんが、よろしければ以下の記事を併せてご覧ください。
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前九年の役で台頭する源氏!源頼義と源義家の親子が東北で足場を固める
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後三年の役とは頼朝の高祖父・義家を武士のシンボルに押し上げた合戦
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これらに加え、妻が都の出身ではなく、鎌倉から比較的近い伊豆出身の政子であったことも、頼朝への好印象を増したと思われます。
長男・頼家の誕生と亀の前
夫婦仲も円満であり、寿永元年(1182年)8月には、長男・源頼家が生まれました。
北条政子の懐妊を知った頼朝は喜び、安産のために祈願をしたり、自ら指図して鶴岡八幡宮と由比ヶ浜の間に参道を作ったりしています。
後者は、現在も鎌倉に存在する段葛(だんかずら)の発祥だとか。
さすがに何回も改修されているので、現在の段葛がそのまま鎌倉時代のものというわけではありませんが……現地へ行かれる方は、頼家誕生の頃を想像してみるのも一興でしょう。

しかし、偉大な頼朝も一人の男。
政子の妊娠中に耐えられなかったようで、伊豆にいた頃知り合った“亀の前”という女性を鎌倉近くの小坪まで呼び寄せ、寵愛していました。
また、新田義重の娘にも恋文を出していたとか。こちらは本人に突っぱねられた上、義重も政子を憚って、別の男への縁談をまとめたため、未遂に終わっています。
幸い、政子の出産は無事に終わったのですが、亀の前の件は少々尾を引きました。
時政の後妻(政子にとっては継母)である牧の方が、頼朝と亀の前の関係を政子に告げてしまったからです。
当然政子は怒り、牧の方の父(兄とも)である牧宗親(まき むねちか)に言い付け、亀の前が滞在していた伏見広綱の邸を壊させました。
広綱はかろうじて亀の前を連れて逃げ出しましたが、これが今度は頼朝の怒りを買います。
「俺に黙って妾を隠すとは何事か!」
というわけです。まあ、勘ぐられても仕方のない状況ではありますね。
宗親は謝罪しましたが許されず、頼朝に髻(もとどり)を切られてしまいます。
裸にされた上に、勝手に出家させられたようなもので、当時の武士にとっては耐え難い屈辱。
これに対し、今度は時政が「妻の一族に恥辱を与えた」と怒って、伊豆へ帰ってしまいます。
まだ平家のことが片付いていないことを考えると、随分なタイミングで内輪もめをしていることになりますが……頼朝は構わず、亀の前を寵愛し続けたといいます。
一方、政子は伏見広綱を遠江国に流してしまいました。
当時と現代では価値観に大きな違いがあるとはいえ、なかなかひどい話です。
こうして夫婦喧嘩は長引きましたが、天下の情勢がそれどころではなくなりました。
木曽義仲が信濃で挙兵し、その後京都で諸々のしくじりをしたことによって、立場が危うくなっていたのです。
義高と大姫の婚約破綻
義仲は同じ源氏の頼朝を味方につけようと、長男の木曽義高(別称:志水冠者)を人質に送ってきました。
頼朝はこれを喜び、長女・大姫と義高を婚約させます。

歌川芳虎が描いた大姫と木曽義高/wikipediaより引用
北条政子も娘だけでなく、義高の世話をこまめにしていたとか。これでいくらか夫婦の空気も和らいだ……かもしれません。
しかし、義仲軍の粗暴は京の人々の反感を買い、反対に頼朝への期待が高まるばかり。
公家の九条兼実はこう評しているほどです。
「平家と義仲が公家と後白河法皇の領地を占領してしまっているので、事務が全くできず、税も途中で奪われてしまっている。
都の商売も滞り、民の生活も危うい。頼れるのは頼朝だけだ」
こうした状況の最中、義仲は【法住寺合戦】を起こして後白河法皇を監禁するという最悪の手段に出ました。
一報を聞いた頼朝も、覚悟を決めて弟の源範頼・源義経を義仲討伐に送ります。
こうなると、義仲の息子である義高を生かしておくわけにはいきません。
一度は大姫の機転で逃げ出せましたが、数日後、堀親家の郎従に捕まり、義高は元暦元年(1184年)4月に入間河原で斬られてしまいます。
婚約者だった大姫は深く嘆き悲しみ、その後、生涯にわたって病人になってしまいます。
政子も娘が不憫でならず、
「命令で追いかけたとはいえ、内々に大姫へ知らせてくれれば助ける方法もあったでしょうに」
と怒りました。
頼朝も妻と娘の意見に同意したものか、義高を捕らえた者を斬ったといいます。その人にとっては、命令に従ったのに後からイチャモンをつけられて殺されたようなものですが……。
一方で、政子の優しい面が見える逸話もあります。
当時、一の谷の戦いで捕虜になった平重衡(清盛の五男)が鎌倉に来ていました。

平重衡/wikipediaより引用
彼は牡丹にも例えられた美貌の持ち主で、気品ある人物だったといわれています。
頼朝も伊豆で対面して以来、重衡に好感を抱き、酒肴を送ったり、都の事情や文化に詳しい者を遣わすなどしていました。
政子も頼朝に同調したものか、自分の侍女の一人である”千手の前”という者を
「田舎娘もご一興でしょうから、しばらくお側に置いてやってください」
と言って侍らせたといいます。
とはいえ、重衡は悪名高い南都焼討の実行者。
清盛の命でやったこととはいえ、直に手を下した者がそう易々と許されることはありません。
少々時系列が前後しますが、元暦二年(1185年)6月に重衡は奈良の僧侶たちの要求で引き渡され、処刑されています。
千手の前は妾でしたから、当然同行することはできませんでしたが……その後も重衡を想い続け、処刑の数年後に若くして亡くなったとか。
いずれも、良し悪しはさておき、政子を始めとした鎌倉の人々が情の濃い質であったことがわかる逸話です。
平家滅亡
平家軍が瀬戸内海に逃げ込むと、頼朝は最後の仕上げにかかります。
源範頼らを送って九州の武士に協力を取り付けようとしました。

源範頼/wikipediaより引用
しかし、九州の武士は平家方が多く、兵糧や馬・船がなかなか揃いません。
ここで無理強いをすれば、源氏への心証が悪くなって話がこじれてしまいます。
頼朝は決して手荒なことをしないように、と何度も書き送っていましたので範頼たちもそれをよく理解し、時間をかけて九州の武士たちから協力してもらうことに成功します。
その間に士気が落ちていることを危惧し、頼朝は京都にいた源義経にも出陣を命じていました。
このころの義経は、頼朝を介さずに朝廷から検非違使に任官されており、兄弟仲が不穏になりつつある頃。
しかし、義仲軍によって荒れていた京都の治安を回復させたことなどにより、民衆や兵からの人気は抜群だったため、頼朝はその影響力をうまく使おうとしたのでしょう。
北条政子は、頼朝と一緒に鎌倉で所々の寺社へ詣で、ひたすら戦勝祈願と供養をしていました。
そのうち【屋島の戦い】、続いて【壇ノ浦の戦い】における勝報が届き、平家に関する憂いはなくなります。

『安徳天皇縁起絵図』壇ノ浦の戦い/wikipediaより引用
この年は『吾妻鏡』の記述が少ない年なので断言できませんが、おそらくこのころ政子は次女・三幡を出産したと思われます。
後々の三幡の享年からすると少しのズレは生じる一方、この時期に「頼朝が常陸介時長の娘を寵愛していた」という記録があるんですね。まったく懲りん人です。
政子が妊娠・出産していた時期だからこそ、また別の女性に気を移したと考えれば辻褄は合うでしょう。
出産との前後関係は不明ながら、政子に関するこんな話もあります。
壇ノ浦の戦いの後、京都にいた木曽義仲の妹・宮菊が鎌倉へやってきました。
政治的なことにあまり関わっていなかったのですが、彼女の名を借りて周辺の武士が荘園を荒らすという事件が相次ぎ、宮菊は肩身の狭い思いをしていました。
義仲の滅亡は自業自得でしたが、宮菊個人には関係のないことですからね。
不憫に思った政子は、宮菊に一度鎌倉へ来るよう勧めています。
頼朝も妻の意見に賛成し、親戚の誼で美濃のとある村を宮菊に与え、生活が立ち行くようにしました。
静御前の舞
北条政子は、行き場や後ろ盾のない女性に対して、特に優しく接した逸話を多く持っています。
平家滅亡後、立ち回りに失敗して失脚した義経の愛称・静御前との逸話もその一つでしょう。

静御前と源義経/wikipediaより引用
この頃、静御前は上方から逃げる途中で義経とはぐれて捕まっており、母の磯禅師と共に鎌倉へ連行されてきていました。
京都での証言と鎌倉での証言が食い違っていたため、頼朝からかなり厳しい目で見られ、厳しい立場になっていたようです。
しかし妊娠中の身であることなどから、政子は同情の目で見ていました。
頼朝が好感を持てるようにか、鶴岡八幡宮を参拝したとき、静を呼び出して舞を所望しています。
罪人扱いを受けている静としては、あまり気の進まないことでした。
しかし政子は、こう説得します。
「天下の舞の名手がこの地に来て近く京都へ帰るというのに、その芸を見ないのは残念です。
ただの見世物ではなく、八幡大菩薩に供えるのだから恥ではありませんよ」
こうなると静も断りきれず、渋々ではあったが舞うことに。

静御前の舞を描いた錦絵(頼朝は画面左奥に)/国立国会図書館蔵
ここで
よし野山 みねのしら雪 ふみ分て いりにし人の あとぞこひしき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 音を今に なすよしもがな
という義経を慕う歌に合わせて舞ったので、かえって頼朝は怒ってしまった……という有名な話があります。
「八幡宮に供えるために舞えといったのに、反逆者である義経を想う歌を使うなどもってのほか!」
そんな頼朝に対し、政子は冷静に説得。
「そうはいっても、行方の知れない夫を案じるのは妻として当然のこと。
石橋山の合戦の後、私も貴方様の行方がわからず、魂が消えるような心地でした。私には静殿の気持ちがよくわかります。
今は追われる身とはいえ、義経殿に長年愛されたことを忘れるなど、女性として有り得べからざることです。
ですからどうぞご勘弁ください」
頼朝も、これにはハッとしたらしく、怒りを収め、静に褒美を与えたといいます。
また、静の滞在中、長女の大姫は病気快癒のため、祖父・源義朝を祀る御堂に参籠していました。静はこの御堂にも舞を納めています。

源義朝『本朝百将伝』/国立国会図書館蔵
政子が娘のために、この御堂へ舞を奉納してほしいと静に頼んだのかもしれません。
静としても、公衆の面前で過去を語ってまで自分の味方をしてくれた政子に、少しでも恩返しを……という気持ちだったのではないでしょうか。
そうこうしているうちに、静の出産が近づいてきたので、もうしばらく鎌倉にとどまることになりました。
生まれたのは……残念ながら男児でした。本来ではめでたいことも、この状況では末路は一途。幼いからといって見逃すと、いずれ父の仇を討つために牙を向きかねません。
政子もそれは承知の上で助命を願い出ましたが、頼朝自身が似たような経緯をたどってきているだけに、許すことはできませんでした。
静は出産から2ヶ月ほどして、母と共に京都へ帰っています。政子と大姫は哀れに思い、餞別の品をいろいろ送ったとか。
その後、静と磯禅師の消息は不明です。
後白河法皇の崩御と源実朝の出産
静御前とは別に、奥州藤原氏に匿われた源義経。
父・藤原秀衡のスタンスを無視した息子の藤原泰衡は、頼朝の圧迫によって義経の首を取ります。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用
しかし、それが頼朝の怒りを買い、今度は奥州藤原氏が討たれることになりました。
頼朝本人の出征は九年ぶりのことです。
相手は奥州を代表する大勢力。さすがの北条政子も心配になったようで、近辺の女房達とともに鶴岡八幡宮へお百度参りをして無事を祈ったといいます。
この戦には政子の弟・北条義時も参加していたので、心配も一層のことだったのかもしれません。
霊験あってか、戦は無事に鎌倉方の勝利。
神仏の加護が実在するかどうかはわかりませんが、少なくとも政子はそう感じたのではないでしょうか。頼朝凱旋の後に鶴岡八幡宮へお礼参りをし、神楽を奉納しています。
さらに時代は動きます。
建久三年(1192年)3月、頼朝や源氏とは複雑な関係だった後白河法皇が崩御。

後白河法皇/Wikipediaより引用
代わって治天の君(実際に政治を行う天皇や上皇・法皇)となった後鳥羽天皇によって、同年7月に頼朝が征夷大将軍に任じられました。
また、同年8月に政子は次男・実朝を出産。
今回もやはり頼朝は大進の局という愛人のもとに通っており、間に庶子をもうけていました。ある意味マメというかなんというか……。
政子からすればやはり耐え難いことで、この息子は後に京都に送られ、仁和寺で出家して貞暁と名乗ることになります。
同時期に別の不幸もありました。
範頼と大姫の不幸
不幸の一つ目は、頼朝の弟・源範頼です。
発端は、頼朝が頼家を連れて富士野の巻狩に出かけたこと。
頼家が鹿を射取ったというので頼朝は喜び、北条政子に知らせたのですが、彼女は使者を叱りつけます。
「武将の息子が狩りで獲物を得るくらいのことは当然、わざわざ知らせるほどのことではありません」
この話は頼朝の子煩悩ぶりや、北条政子の気の強さが出ているなど、さまざまに評価されている有名な話ですね。
問題は、この外出の間のこと。
日本三大敵討ちで有名な【曽我兄弟の仇討ち】が起きるのです。

曽我兄弟/wikipediaより引用
言ってみればテロ行為ですから情報が錯綜し、鎌倉には「頼朝が討たれた」という噂も流れてしまいます。
当然、政子も穏やかではおられず、これに対し、留守番役をしていた範頼が政子を慰めようと、
「私がこの通りついていますので、後のことは心配いりません」
と言ったのがまずいことになりました。
範頼の性格からして、裏のある言ではなかったと思われますが……このことを後に政子から聞いた頼朝は、
「あいつ、この隙に将軍の地位を横取りするつもりなのか?」
と疑ってしまいます。
源範頼は起請文を出して無実を訴えます。
しかし、範頼の家臣が主人のため何か情報を得ようと、頼朝の寝所の床下に忍びこんだため、かえって疑いが深くなってしまいました。
隣室で聞き耳を立てるならばまだしも、よりにもよって床下では、暗殺を企てていたととらえられても仕方がありません。
源範頼は伊豆に流され、そのまま亡くなりました。暗殺説もあります。
もう一つの不幸は、大姫の病気でした。
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大姫(源頼朝と北条政子の娘)/wikipediaより引用
このころ大姫の容態は、頼朝や政子の平癒祈願をよそに、一進一退の域を出ない状況が続いていたのです。
頼朝や政子は結婚を勧めたり、旅行に行ったりして大姫を明るい気分にしようとしましたたが、ほとんど効果はなく。
やはり最初の婚約者・義高を想う気持ちが強かったのでしょう。幼い頃から共に暮らしていれば、それも仕方のないことです。
頼朝は最後の手段として、京都への家族旅行を決めます。
もちろんただの娯楽ではなく、東大寺再建を始め、京都・奈良の寺社参拝や、宮廷への政治工作などいろいろな目的がありました。
それらの用事を片付けながら、当時十六歳の後鳥羽天皇の後宮に、大姫を入れる工作をしようとしていたのではないかと言われています。
野心だけでなく、全く違った環境に行かせることで、大姫の気分を切り替えさせて健康に……という親心もあったのでしょう。
当時、後鳥羽天皇の寵愛を受けていた女性は二人。
関白・九条兼実の娘である任子(宜秋門院)と、源通親の養女・在子(承明門院)です。
そしてこの建久六年(1195年)8月に任子は皇女を、11月に在子は皇子(後の土御門天皇)を産みました。
頼朝一家の京都旅行の時点では、二人ともまだ出産前ですし、兼実は頼朝を政治的な味方につけようとすべく、大姫入内に協力するつもりでいました。
しかし、兼実とは政治的に反発していた人々もいて、大姫の入内は実現しません。
「源氏が平家と同じように、外戚となって権勢をふるい、横暴を働くのではないか?」と思われても仕方がないですしね……。
頼朝一家は4ヶ月ほど京都に滞在して、6月に鎌倉への帰路につきました。
途中、美濃で政子の妹(御家人・稲毛重成の妻)が危篤と知らされ、頼朝たちに同行していた重成は馬を賜って一人急いで鎌倉へ帰っています。
しかし臨終に間に合わず、重成は嘆き悲しんで出家。
政子も妹の喪に服しました。
その一方で、大姫の病気がまた重くなってしまいます。これは長旅が体に障ったものでしょうか。
一時は高僧の祈祷で持ち直したものの、建久八年(1197年)7月14日に大姫は20歳(または19歳)で亡くなっています。
夫に続き娘にも不幸が
娘を失った悲しみも薄らがない建久十年(1199年)1月13日のこと。
今度は夫の頼朝が亡くなってしまいました。
死因は何だったのか?
前年末に、重成が亡き妻の供養として作った橋の落成式に参加し、その帰り道に落馬して意識を失い、落命したと伝わります。
ただし、この年は『吾妻鏡』の記事が欠けていて、詳細は不明。
あまりにも急なことだったため、当時から安徳天皇の祟りなどの怨霊説があったようです。また、時代が下るにつれて北条氏による暗殺説も唱えられるようになりましたが、ここでは触れません。
頼朝の跡は18歳の源頼家が継ぐことになりました。

源頼家/wikipediaより引用
北条政子としては心配が絶えません。
幸い、実家の父・時政や弟・義時、そして大江広元・三善康信などの宿老たち、頼家の舅・比企能員など、政治的に頼れる相手はたくさんいます。
ご存知『鎌倉殿の13人』でお馴染み、十三人の合議制ですね。
この時点で政子は、彼らや他の御家人たちとよくよく相談して政治を行うこと、決して独断専行しないことなどを言い含めておくにとどめたようです。
なぜかというと頼朝の四十九日法要を済ませた後から、次女・三幡が病みついていたからです。
四十九日が2月2日で、5日には高熱を出していたとか。
政子は鎌倉中の寺社で祈祷を行ったものの、病状は悪化の一途。都に丹波時長という名医がいると知って、急いで鎌倉へ来てくれるよう頼んだものの、なかなか返事が来ません。
焦れた政子は、12日に「まだ来てくれないのなら上皇様に訴えます!!」と詰め寄る使いを出しました。
この”上皇”は後鳥羽上皇のことで、この頃は位を退いていました。
なぜ後鳥羽上皇の名が出てくるのかというと、三幡が上皇の後宮に入る話が出ていたから……という理由のようです。
5月6日に時長は鎌倉へやってきて治療を始め、薬を与えたところ、一時的に三幡は回復しました。
政子も皆も喜びましたが、6月半ばにまた悪化すると、疲労がひどく、目の上が腫れてきていたといいます。
さすがに丹波時長も「もはや、どうにもできぬ」と匙を投げてしまい、これに驚いたのが、姫の病状を伝え聞いた養育係の中原親能(大江広元の兄・親能の妻が三幡の乳母)でした。
彼は頼朝の死後、京都で事務処理をしていたのですが、一報を聞きつけると急いで鎌倉へ。
医師の時長も、さすがに治療は行っていたでしょうが、6月20日に三幡は息を引き取ってしまっています。
親能が25日に到着すると、時長は待ってましたと言わんばかりに26日には京都への帰路につきました。この時代では仕方のないことですが、よほど関東に来るのが嫌だったのでしょうね。
後鳥羽上皇から弔問の使者を出されていたことからしても、三幡入内の計画があったことは間違いないとみていいでしょう。
こうして政子は、夫と娘二人を相次いで亡くしてしまいます。
おそらくはまだ若い源頼家、そして幼い源実朝にも大きな衝撃を与えたでしょう。
頼家の暴走と数多のトラブル
50歳を過ぎ、事故から亡くなった父・頼朝はともかく、まだ若い姉と妹も病で亡くなった。
そんな不幸の連続から、息子・源頼家の即物的で刹那的な価値観は強まったのかもしれません。
頼家は、宿老たちや母の実家である北条氏の干渉が疎ましくなり、自分の妻の一族である比企氏や昔なじみの若侍を徴用したがり始めました。
そして十三人の合議制を無視しようと、自分の気に入っている若い5人の侍だけをそばに置き、以下のようなムチャな命令を出します。
「この5人とその関係者が何をしても、他の者は敵対してはいけない」
「彼ら以外は特別なことがない限り、将軍に会ってはならない」
これだけでも将軍としての器が疑われるところですが、さらに女性問題まで勃発。
安達景盛の妾に目をつけると、景盛を三河へ向かわせた間にその妾を奪い、例の5人の侍以外は来るな!という、これまた非常識な命令を出したのです。
他にも鶴岡八幡宮の祭りをサボるやら、帰ってきた景盛を討って妾を完全に自分のものにしようとするやら、暴君といわれても仕方のない言動が続きました。
当然、北条政子は頼家を訓戒します。
「父や妹が亡くなったばかりなのに、わざわざ争いの種を作るとはどういうことですか! それに、景盛は昔から働いてきた功臣ですよ。何か罪があるというのなら私が取り調べます」
こう言われると、さすがの頼家も少しは大人しくなります。
しかし、上がこんな状況では、御家人たちがまとまるはずもありません。
まず、梶原景時への不満が爆発。

梶原景時『本朝百将伝』/国立国会図書館蔵
景時は、職務に忠実すぎて頼朝の生前から「頼朝公の寵愛を笠に着て、自分が気に入らない奴を追い落としている」といわれていました。
頼家に代替わりしてもその傾向が変わらなかったものか、なんと66人もの御家人が景時を弾劾する連署状を書いたのです。
最初にこれを提出された大江広元は、10日以上手元にとどめて握りつぶそうとしましたが、署名したうちの一人である和田義盛にせっつかれ、やむなく頼家に提出。
そして頼家が景時を呼び、言い分を聞こうとすると、景時は何もいわずに一族を連れて領地に帰ってしまいました。
関東ではもう生きていけないと感じたのか、その後、京都へ向かうのですが、道中、駿河で何者かに襲われ、一族もろとも命を落としたといわれています。
この件に関して政子は、全く意思表示をしていません。彼女の性格からして、なにかあれば即座に言い放っていたでしょうから、おそらく景時の排斥については異論がなかったのでしょう。
あるいは、景時をスケープゴートにして御家人の団結を図ったのかもしれません。
しかし頼家自身の問題は、まだまだ終わりません。
後鳥羽上皇に頼み、鞠の名手である行景という者を派遣してもらって以降、蹴鞠にドハマリしてしまっていたのです。

蹴鞠をする徳川吉宗(月岡芳年画)/wikipediaより引用
毎日のように蹴鞠の会を開催。
全国では、地震や台風による被害が相次ぎ、飢饉で一般民衆が苦しんでいたにもかかわらずこんな調子で、さすがに義時の息子・北条泰時が黙っていられなくなりました。
飢饉に際して泰時は、地元へ走り、米を配ったり負債を帳消しにするなど、領民救済のために奔走していたのです。
頼家に怒りを覚えても自然なことでしょう。
「蹴鞠をご愛好なさることは結構なことですが、今は台風の被害で皆が飢饉に悩んでいるのです。各地の様子を調べて手を打つのがあなたの仕事ではありませんか」
というように諫言したところ、何ら効果なし。
建仁2年(1202年)の正月、一族の長老・新田義重が亡くなったにもかかわらず、頼家はその喪も明けない十数日後に蹴鞠へ出かけようとする始末でした。
政子もたまりかね、ついには注意します。
「源氏の宿老であった義重が亡くなったばかりなのに、遊びに出かけるとは何事ですか!」
「蹴鞠と物忌みとは関係ありません」
さすがにこのときは止めていますが、蹴鞠への熱狂は終わらなかったらしく、所々で鞠の件が出てきます。
蹴鞠に出かけた先で女性の訴えを聞いてやったことなどもあるので、頼家が全く仕事をしていなかったわけではないのですけれども……悪い件のほうが多すぎました。
政子も息子の趣味を理解しようと、名人の蹴鞠を見に行ったこともあったんですよね。
比企能員の変
建仁2年(1202年)7月、源頼家は二代目となる征夷大将軍に就任。
こうした性格と病弱さでは、とても長く職務を全うできる器ではありません。
天罰とも取れる出来事が翌建仁3年に起こります。同年6月、頼家が伊豆から駿河にかけて狩りに出かけたときのことです。
伊豆と富士でそれぞれ一ヶ所ずつ深い穴を見つけ、家臣に調べさせました。
伊豆の穴に入った家臣は言いました。
「数十里も続くような真っ暗な穴で、奥に大蛇がいたので斬り殺して帰ってきました」
一方、富士の穴では次の通り。
「狭くて後戻りもできないような穴で、コウモリがたくさん飛んでいて顔に当たりました。
その先に川があって渡れず、困っていたところ怪しい火が輝き、家来が四人死にました。
私は頼家様からいただいた刀を川に投げ入れ、なんとか帰ってくることができました」
いずれもにわかには信じがたい話ですが、当時の価値観では人知の及ばぬ神域を侵した……とされても不思議ではありません。
それから一ヶ月ほどして、神の使いとされていた鶴岡八幡宮の鳩がやたらと変死するという怪異が起き、ついには頼家が発病。
祈祷や治療の効きめがなく、穴にいた神霊の祟りだと恐れられたようです。
日頃から評判が良くない頼家が発病し、しかも何ヶ月も治らない……となると、次に問題になってくるのは相続ですね。
長男の一幡はまだ6歳という幼さで、急いで話をまとめなければなりませんでした。
頼家の弟で北条政子の次男・源実朝も、一幡よりは年長ながら、当時はまだ12歳で元服前の少年。

源実朝/Wikipediaより引用
そこで実朝に関西三十八ヵ国の地頭職、一幡に関東二十八ヵ国の地頭職と惣守護職が譲られることになりました。
これに異を唱えたのが、一幡の外祖父にあたる比企能員です。
地方の御家人武士も将軍の病を聞きつけ、さらに相続も揉めていると聞いて騒ぎ出しました。
比企能員は、娘(頼家の妻)の若狭の局を通じ、頼家に訴えかけます。
「子供と弟で相続を分けるというのは争いのもとになります。きっと北条一族が一幡から家督を奪おうとしているのです。討たなければいけませんよ」
病床の頼家はこれを信じてしまい、北条討伐の計画に着手。
これを政子が障子越しに聞き、急いで父・時政のもとへ知らせました。
さすがの時政も驚き、まず大江広元の邸に行って相談。
「能員が将軍を騙して我らを討とうとしているらしい。先手を打って奴らを討つべきだと思うがどうだろうか」
広元の了解を得て、天野遠景らに命じて能員を討つことにしました。
遠景は「おおっぴらに兵を動かすよりも、適当な理由で邸に呼んで殺してしまったほうがいい」と考え「時政殿の邸で仏像供養をするので、来てもらえないだろうか」と能員を呼び出しました。
能員はまだ計画がバレたとは思っていませんでしたから、下手に疑われまいとして、丸腰同然でやってきたそうです。
そしてあえなく殺され、驚いた従者が比企家の面々にこれを知らせると、一族は一幡を抱えて立てこもりました。
外から見れば、
”比企一族が将軍の病気をいいことに、若君を人質にとって反逆した”
ということになります。
北条氏は他の御家人たちを動員し、比企一族を一幡ごと滅ぼしました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも佐藤二朗さんが演じる比企能員が、トボけた雰囲気ながら哀しい最期を迎えていましたね。
頼家は不審死 三代将軍は実朝に
一方、比企氏の一件を知った源頼家は驚き怒り、時政を討とうと和田義盛・仁田忠常に命じます。
しかし、です。肝心の義盛が時政に知らせたため、失敗に終わります。

和田義盛/Wikipediaより引用
ついでに頼家がえこひいきしていた5人の若侍も遠ざけられ、完全に孤立。
北条政子からすれば、それでも息子には違いありません。せめて一命を助けようと、息子に出家を勧めました。
頼家も事ここに至ってやっと状況を理解し、頭を丸めて修善寺へ向かいます。この間、京都には、既に頼家が亡くなったと伝わり、源実朝に将軍宣下がなされていました。
頼家は翌年、修善寺で亡くなっています。
死因は定かではありませんが、当時から暗殺の疑惑が絶えず、おそらくは政子の知らないところで北条氏が手を回したものと思われます。
こうして数年のうちに、鎌倉幕府は三代目の将軍・源実朝になりました。
実朝は、元服式を執り行い、形の上だけでは政治にも関わるように。
実際の政治は、祖父である北条時政と、幕府創設以来の老臣・大江広元が行いました。

大江広元/Wikipediaより引用
生来勉強好きな質だった実朝は、頼家より将軍に向いていたと思われ、歌道を好んだこともあってか、古代の政治をよく学んでいました。
おそらくは時政や広元の仕事ぶりを見ながら、リアルタイムでも習得していたでしょう。
ここで、実朝の政治に関する逸話を一つご紹介させていただきます。
あるとき相模川の橋が一部破損してしまったため、三浦義村が修理を上申しました。
これに対し、北条義時・大江広元・三善康信などが以下の理由から訴えを退けようとします。
「この橋は、かつて稲毛重成がその亡妻の供養のために作ったもの。
その落成式に出席された頼朝公が帰路に落馬して亡くなる原因になったのだから、不吉だ。
修理する必要はない」
父親のことですから、実朝も経緯をまったく知らなかったということはないでしょう。
三人の議決に対し、こう答えます。
「そうはいっても、父上は武家の棟梁として位を極めていたし、亡くなったのは事故の結果なのだから、橋とは関係ない。
この橋は伊豆山・箱根に参詣する道の途上にあり、壊れたままでは民衆の往来にも不便だ。
全壊しないうちに修理せよ」
こうして真っ向から反対し、修理を急がせたのです。
実朝21歳のときのこと。迷信や祟りなどが信じられていた時代には似つかわしくないほど、現実的な見方をしていますね。
兄の頼家が同じ歳のころ、母の北条政子に叱られてばかりだったことを考えれば、実朝の将来は明るく見えたのではないでしょうか。
実朝は文学を好むせいか、妻に関しても武家ではなく、公家から迎えたいと自ら希望しています。
そして前大納言の坊門信清の娘・信子と結婚しました。

坊門信清/wikipediaより引用
夫婦仲は良かったようですが、残念ながら子供には恵まれていません。
また、実朝夫人は政子とも良好な関係であり、たびたび一緒に寺社詣でをしたり、流鏑馬や舞の見物にも出かけています。
文治的な実朝に反発する勢力も
源実朝は、後鳥羽上皇との関係も良いものでした。

源実朝(左)と後鳥羽上皇/wikipediaより引用
小倉百人一首の選者・藤原定家に師事して和歌を学び、それを通して上皇と関係を築いていたのです。
母である北条政子にとって唯一の心配は、実朝も生来病弱な質だったことです。
数日休養することも珍しくなく、17歳のときには疱瘡を患って、近隣の御家人が鎌倉に集まってくるほどでした。
体を強くするには、やはり武芸に励むのが一番。
武家の棟梁としても、ある程度「弓馬の道」に長けていなければ、御家人たちがついてきません。
そこで政子は、義時や広元を通して、弓の稽古や狩りに出かけることを勧めました。
実朝は生来おとなしい質でしたから、母の言いつけに従っています。
しかし、武芸や狩りそのものよりは、その後催される宴のほうが面白かったようです。乱暴を好むよりはマシですが、政子としてはもう少し雄々しさが欲しかったでしょうね。
政子は、実朝だけでなく周囲の人間関係にも心を配りました。
後々の禍根にならないよう、頼家の遺児・公暁を実朝の養子にしてから仏門に入れたり、同じく頼家の娘を実朝の妻・信子の養女にして生活が立ち行くようにしたり、細々と世話を焼いています。

公暁(月岡芳年『美談武者八景_鶴岡の幕雪/wikipediaより引用
しかし、和田合戦で実朝の頼りにしていた和田義盛が滅び、北条義時の力が強まると、実朝は政治への興味を一層なくして風雅の道へ入っていきました。
もしかして自分が出しゃばろうとすれば義時に滅ぼされると勘が働いていたのかもしれません。
これがまた、御家人の反発を招きました。特に長沼宗政という気性の荒い御家人が、実朝を悪罵した件が伝わっています。
その理由を見ておきましょう。
頼朝の死後、北条氏による有力御家人の排斥は続いており、そのターゲットになったうちの一人に畠山重忠という人がいました。
重忠は武蔵の武士たちを取りまとめる立場にあり、頼朝以来の功臣。
梶原景時の変・比企能員の変では、いずれも北条氏についていたのですが……順番が来てしまった、ということでしょう。
遠因は、実朝の結婚前に遡ります。
実朝の妻・坊門信子を迎えるため、御家人たちが上洛し、京都で交渉役をしていた平賀朝雅の邸へ向かったときのことです。
このとき重忠の息子・畠山重保が平賀朝雅と口論となり、それ以来二人の仲がこじれてしまいました。
それだけならどうってことはないのですが、半年ほどたったころ「鎌倉が不穏な情勢になっている」という噂が立ち、御家人たちが集まってきました。
中には畠山重忠もおり、このときは一旦静まったのですが……この後、朝雅が北条時政の後妻・牧の方に重保との口論の件を話しました。
これを牧の方が曲解し「畠山父子は謀反を企んでいるに違いありません!」と時政にゴネ、時政もこれを信じてしまいます。

牧の方/国立国会図書館蔵
そして時政から息子である北条義時・北条時房の兄弟に重忠討伐が命じられました。
二人は討伐に大反対。
「重忠の日頃の行いには全く問題がなく、謀反など考えられません」
しかし、牧の方の兄・大岡時親に詰め寄られます。
「継母の言うことは聞けないというわけか?」
結果、義時らは仕方なく畠山氏を討ってしまいました。
それから数年後、出家していた末の息子・畠山重慶(ちょうけい)にも疑いがかかります。
実朝は、重忠に罪がなかったこと、重慶が僧侶であることからあまり疑っていなかったようですが、取り調べのために重慶を連れてくるよう、長沼宗政へ命じます。
しかし、あろうことか宗政は、重慶の首を斬って持ってきました。
現代日本に置き換えるとすれば、裁判前の容疑者を警察官が勝手にブッコロしてしまったようなもので、当然、実朝も問題視しました。
それに対する宗政の言い分が、こうです。
「今の将軍は和歌や蹴鞠ばかりを重んじて、武芸をやらず、まるで女のようだ。
滅んだ者の領地も武士ではなく女に分け与えてしまうし、武士ではなく女が主のようなもの。
罪人を連れて帰ったところで、女の訴えで許してしまうだろうから殺したのだ」
宗政は元々気が短く荒っぽい人物だったようですので、日頃から鬱憤が溜まっていたのでしょう。大人しく文芸を好む実朝が余程気に入らなかったとみえます。
前述の橋の一件などからすると、実朝がそこまで情に流されるタイプとも思えません。
長慶の件に対しても、実朝は宗政を叱責・処罰するのではなく、
「出家の身でいかに陰謀を巡らしたとしても、大したことはなかっただろう。何か企んでいたのなら罰するべきだが、まずはきちんと取り調べるべきだった」
と、落ち着いて反論したようです。
この冷静さも、宗政にとっては癪に障ったのでしょうかね。
誰かがここで義経と奥州藤原氏の例を引いて
「捕らえよという命令を聞かず勝手に殺すのは不届きであり、討たれる側になっても文句は言えない」
とでも言ってくれればよかったのかもしれません。
北条政子や大江広元ならば、そうした説得の仕方もできたかもしれませんが、実朝としても、宗政がこれ以上反発することを避けたのかもしれません。
孫の公暁が息子の実朝を暗殺
このころ北条政子は齢60を超えてまだまだ壮健。
実朝と幕府の安泰を祈るため、熊野詣に出かけていました。
このときは弟の北条時房を連れ、妹の孫娘の縁組を取りまとめるという公的な仕事も目的としています。

北条時房/wikipediaより引用
そして、無事政子が鎌倉へ帰ってくると、実朝が「宋に渡りたい」と言い出しました。
しかも、この一件と前後して実朝の官位昇進が早くなり、政子や広元の心配を招いています。
建保元年(1213年)正三位
建保四年(1216年)権中納言兼左近衛中将
建保六年(1218年)権大納言、左近衛大将、右大臣
古来より、分不相応に高い官位につくと、神罰があたって早死するといわれていました。
そのため政子や義時、広元はこのような急な昇進は辞退すべきではないか、と実朝に勧めたそうです。
しかし、実朝は理路整然と答えます。
「そのことはよくわかっているが、源氏の血は自分の代で絶えようとしている。
子孫にあとを伝えるという望みはないのだから、自分が高官に昇って家名を高めたいのだ」
これには皆返す言葉がなかったといいます。
肩書とはいえ、右大臣は人臣の位としてはナンバー3という高官(太政大臣を含めた場合)。
武士の世間的な地位がまだまだ低かったこの時期としては、恐れ多いと感じるのもごく当然のことでした。
実朝にとっては迷信の類にしか思えなかったのかもしれません。しかし……。
建保七年(1219年)1月27日、実朝が鶴岡八幡宮へ拝賀を行った帰り道のことでした。
階段脇の大銀杏から飛び出してきたのは兄・頼家の息子である公暁。
実朝にとっては甥っ子に、突如として斬られ、落命してしまいます。

実朝たちに斬りかかる公暁/国立国会図書館蔵
公暁はその場で捕まり斬られ、あろうことか北条政子は、自身が生きている間に夫と子供全員を喪ってしまうのです。
しかも孫が息子を殺すのですから、これ以上の不幸はなく。
常人であれば心を病んでしまいそうですが、せっかくできた武士政権を水泡に帰すわけにはいかないと考えたのか。
実朝の葬儀を済ませると、政子は直ちに京へ使いを出し、こんな願いを申し出ます。
「後鳥羽上皇の皇子のうち、お一方を将軍として鎌倉へ下していただけませんか」
書面には政子の他、幕府の宿老が連署し、鎌倉一同の希望であることが示されていました。
朝廷にとって、皇子が関東に下るということは、さすがに重大です。
すぐには許可が降りず、上皇は「摂関家の子なら許そう」と譲歩。そこで、鎌倉では相談の結果、左大臣・九条道家の子である頼経を迎えることにしました。
頼経はまだ生まれたばかりの幼児ですが、頼朝の妹のひ孫にあたりますので、源氏の血は引いています。
「京から鎌倉への道中、一度も泣かなかった」というほどおとなしい子供だったそうで、将軍就任後、実務については政子や広元が担いました。
尼将軍――そんな風に呼ばれるようになるのは、この頃からです。
承久の乱
政務と頼経の教育、そして実朝らの供養など。
北条政子にとって忙しい日々が過ぎていきます。
公家から将軍を迎えたことにより、幕府と朝廷の関係は良好になった……と思いたいところですが、残念ながらそうは行きませんでした。
鎌倉時代の一大事件である【承久の乱】が忍び寄っていました。
元々、朝廷は、自分たちこそが正当な為政者であり、幕府の権力強化は本意ではありません。
坂東武者の荒々しさも目に余ったのでしょう。度重なる将軍の不始末や暗殺、御家人の粛清などを見ていれば、後鳥羽上皇が朝廷復権を考えても自然なことです。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
さらに幕府の中心だった源氏の直系が絶えた上に、皇族を将軍として鎌倉へよこせというのも、分不相応甚だしいと感じられたのではないでしょうか。
そうした中で、ついに幕府の中心人物・北条義時への調伏が行われてしまいます。
調伏とは、敵を倒すために行われる祈祷のこと。
現代人から見ると「何の意味があるの?」とも思えてしまいますが、当時は神仏や祈り・呪いの力が強く信じられていましたので、重大なことでした。
そしてついに……。
「後鳥羽上皇が諸国の武士を集めて、倒幕の兵を挙げた!」
京都にいた御家人の伊賀光季と、親幕府派の公家・西園寺公経から、鎌倉へ同時に報せが届きました。
密告したことは上皇方にばれ、公経は幽閉され、光季は上皇の兵によって殺されます。朝廷側の本気さがうかがえますね。
続いて上皇は正式に【北条義時追討】の命令を出しました。
突如知らされた鎌倉の御家人たちにとっては、寝耳に水だったことでしょう。
多くの御家人が動揺している中で、関東の武士にも上皇から「義時を討つべし」という命令が出されています。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
さすがの義時や北条一門もどうすべきか迷いました。
これまで重大なことについては宿老である大江広元の意見が重視されがちでしたが、彼はこのころ眼病で失明寸前になっていたことも、不安をかきたてたかもしれません。
となると北条政子の意見が重要になってきます。
頼家の頃からずっと将軍を訓戒・教育し、政治にも携わってきて、さらに健康な人物……というと他に当てはまる人がいなかったのでしょう。
ここで有名な政子の大演説が行われます。
話の内容については、史料によって差異があり、正確なものはわかりません。
大まかな共通点としては
「故将軍・頼朝が朝敵を討伐し、皆に官位や土地を与えてくれたからこそ今があるのではないか。
院方に付きたい者はこの場で申し出るがいい!」
というところです。
実際の演説について声を張り上げたのは別の御家人ですが、ともかく鎌倉武士たちは政子に奮い立たされます。
朝廷と戦だ!
ただし、幕府軍は戦略でも少々揉めたようです。
箱根の関所で上皇軍を迎撃すべきだとか、鎌倉やそれぞれの本拠を留守にするのは良くないとか、一日前後を軍議で潰しています。
そこで大江広元や三善康信などの老臣が主張。
「迎撃などは考えず、天に運を任せて直ちに出撃せよ。こういうときは例え泰時一人であっても、急進する者がいれば後から皆集まってくるものだ」
”兵は神速を尊ぶ”というやつですね。
そして政子・義時・広元・康信が鎌倉に残り、他の主だった御家人たちはひたすら西へ向かいました。
幕府軍は総勢19万にまで膨れ上がったといいますから、広元たちの意見は正しかったことになりますね。
ただし19万というのは誇張された記録であり、実際にはもっと少なかったことが確実視されています。
戦闘の経過は、以下の記事をご覧いただくこととして、一団となった幕府軍は上皇軍にアッサリ勝利しました。
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なぜ承久の乱は勃発しどう鎮圧されたのか?後鳥羽上皇が抱いた不信感
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義時の急死後も幕府や北条を支え続け
戦後、広元らは上皇軍に加担した公家や武士などの処刑・処分などの仕事がありました。
北条政子は、その辺の処理にはあまり加担していません。
政子に何らかの縁がある公家の中には、助命に動いてくれるよう頼む人もいました。
しかし、この時代のことですので、処刑に間に合わなかった人もいれば、間に合って流罪で済んだ人もおり、こればかりはどうしようもないことでした。
伊賀光季の幼い子供たちを邸に招いて激励したり、乱後に新しく任じられた守護・地頭の様子を調べさせて評判を確かめるなど、彼女が細かなところに気を遣っていたという話もあります。
既に60歳を過ぎていましたので、御家人だけでなくほとんどの人が子供や孫のような世代ですから。
幕府だけでなく、多くの人を慈愛の目で見るようになっていたのでしょうね。
政子晩年の最後の一仕事は、弟・北条義時の急死からはじまる一騒動でした。
あまりに突然なことですが、どうやら脚気衝心によるものらしく、なんだか『鎌倉殿の13人』の主役を彼女にしても良さそうなぐらいでしたね。
義時の息子・泰時と時房は当時京都にいて、知らせを受けると急遽鎌倉へ。
政子は大江広元に相談した上で、二人に将軍・頼経の後見を命じ、ひとまず政治体制を安定させようとします。

北条泰時/wikipediaより引用
しかし、義時が家督や領地相続のことを決めないまま亡くなってしまったため、少々面倒なことになりました。
義時の未亡人・伊賀の方が、自分の娘婿である藤原実雅を将軍に押し上げ、その後見として自分と実家の伊賀氏で実権を握ろうとしたのです。
さらに伊賀の方は、有力御家人の三浦義村を味方につけようと工作をはじめました。
これを聞きつけた政子、なんと侍女一人だけをつれて義村の屋敷に乗り込みます。
そして、トボけようとした義村に対し、ド迫力で詰め寄りました。
「最近伊賀氏の者がお前の屋敷に出入りしていると聞きますが、何か企んでいるのですか?
幕府を支えてきた義時の跡を継ぐべきなのは、息子の泰時ですよ。
泰時は承久の乱でも役割を果たし、器も申し分ないのだから、お前たちが出る幕はありません。
伊賀氏につくのか泰時につくのか、今はっきり答えなさい!」
三浦義村は、これでおとなしくなりました。
が、伊賀氏のほうはまだまだ収まりません。
政子は義村を含めて御家人たちを集め、再び鼓舞します。
「将軍がまだ幼いのに乗じて、謀反を企んでいる者がいると聞きます。頼朝公の恩を忘れず、一致団結して謀反人を始末すべきです!」
そして、事が終わると、このときも広元に相談の上で、伊賀の方その他首謀者を流罪に処しました。
最後の最後まで苦労の絶えない政子の生涯。その中に希望もありました。
甥の北条泰時が、非常に公正な人物だったのです。
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人格者として称えられた三代執権・北条泰時|父の義時とは何が違うのか
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泰時が父・義時の遺領配分を行う前、その割当を一覧表にして政子に見せたことがありました。
その中で、北条氏の当主であり執権でもある泰時本人の分が異様に少なくなっていたのです。
政子が不思議に思って尋ねると、泰時はこう答えたそうです。
「私は執権という重職についたのだから、広い領地はいりません。その分を弟たちにやって満足させたいのです」
もちろん泰時の弟たちも大喜びし、異論はまったくなかったとか。
一族の争いに散々、悩まされてきた政子にとっても、嬉しいことだったのではないでしょうか。
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その後は大きな事件もなく、嘉禄元年(1225年)の5月に病みついた後、2ヶ月ほどして政子は息を引き取りました。
正確には嘉禄元年(1225年)7月11日のこと。
政治の上では戦友ともいえる大江広元の死を見送って、1ヶ月後のことでした。
要所要所では断固とした対応をしているため、政子にキツイ印象が生まれるのも至極当然ですが、実際はいかがでしょうか。
若い頃からの苦労や、家族全員に先立たれるという不幸を乗り越え、幕府を支えきった政子は「悪女」なんかではなく「良妻賢母」という言葉……いや、優しさと厳しさを兼ね備えた理想の為政者だったように思われます。
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