福島正則

福島正則/wikipediaより引用

豊臣家

福島正則は秀吉子飼いの武将なのに~徳川政権で転封改易の悲劇を辿る

全国的にはマイナーだけど、ある地域ではバツグンの知名度を誇る「ご当地マイナー武将」を紹介する当連載。

今回の注目は大河ドラマ『どうする家康』にも登場し、寛永元年(1624年)7月13日に亡くなられた福島正則さんでございます!

「え? 普通に全国的に有名じゃん!」

そう思われる武将ですよね。

戦国好きの方だったら「豊臣秀吉の親戚で、出身は尾張(愛知県)でしょ?」と付け足したくなるほどかもしれません。

秀吉子飼いの武将として加藤清正と並ぶ存在だった福島正則。

今回は“あのメジャー武将の意外な終焉の地”に注目して、その生涯と共にご紹介させていただきます。

 


福島正則 なぜ長野県北部の町村へ?

「意外な地」とはどこなのか?

戦国好きな方でしたら、こう申されるかもしれません。

「愛知県清須市でしょ? 秀吉政権の時に清洲城の城主を務めてたんだし」

「はいはい、江戸時代徳川家康から広島城主を任されたから広島市ね?」

フフッ……今回はそのどちらでもございません。

福島正則さんの意外なゆかりの地というのは「長野県高山たかやま村&小布施おぶせ町」です!

長野県小布施町(→link

豊臣恩顧として知られる福島正則さん。なぜ長野県北部の町村がゆかりの地に?

結論から申し上げますと終焉の地だからです。

天下人の縁戚を出自に持ち、戦国の世を駆け抜け大大名が、縁もゆかりもなかった信州で最期を迎える―――いったい何があったのか?

晩年にピントを合わせつつ、その生涯に迫っていきましょう!

 


桶屋の倅が武士になった理由

福島正則さんが尾張の海東郡に生まれたのは1561年(永禄4年)のこと。

タメには、後に「関ヶ原の戦い」で因縁を持つことになる井伊直政(家康の重臣、徳川四天王)や吉川広家(毛利元就の孫、吉川元春の子)などがいます。

また、出来事で言うと武田信玄上杉謙信による「第四次川中島の戦い」が起きた年でもあります。

これまた因縁ですが、福島正則が晩年を過ごした長野県北部は、まさに武田信玄と上杉謙信が奪い合って5度に渡る大きな戦いを繰り広げた場所でもありました。

※以下は第四次川中島の戦い考察記事となります

第四次川中島の戦い
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そんな福島正則さんの実家は武士ではなく桶屋だったそうです。

なぜ桶屋の倅が、武士として取り立てられたか? というと母親が大政所の妹だったと言われているためです。

大政所というのは、秀吉の母親にあたるお方。ハッキリと分かっていない部分は多いんですが、福島正則さんと秀吉は従兄弟の関係だったんですね。

ちなみに、歴史ドラマなどで福島正則さんとペアで描かれがちな1歳年下の加藤清正も、母親が大政所と従姉妹だった(妹とも)と言われています。

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福島正則さんの幼名は「市松」と言います。

市松と聞くと、歴史好きならずとも連想するのが「市松模様」ですね。

福島正則さんが由来!と言いたいところですが、コチラは江戸時代中期の歌舞伎役者だった佐野川市松が白と紺の格子模様が施された袴を履いて流行したため、市松模様と呼ばれるようになったそうです。

1年延期となった「東京オリンピック」のマスコットキャラのミライトワにも、日本を代表する模様として市松模様がデザインされていますね。

話が逸れました!

改めて言いますと、市松模様と福島正則さんは関係ございません(笑)

 


初陣は干し殺しでお馴染みの三木城だった

さて、主人公に話を戻しましょう!

福島正則さんはハッキリした時期は不明ながら、幼少期から秀吉に仕えたといいます。

幼名を「虎之助」と言った幼馴染の加藤清正は、天正元年(1573年)に秀吉が長浜城(滋賀県長浜市)の城主になった頃に小姓となったと言われていますので、福島正則さんもおそらくそのタイミングでしょう。

年齢は、数え年で13歳。

それから5年後の天正6年(1578年)に、当時18歳の福島正則さんは初陣を迎えます。

何の戦いだったかというと、主君である秀吉が織田信長から命じられた三木城(兵庫県三木市)の攻防戦です。

秀吉は周囲に本陣や付城つけじろ(砦)を築き、兵糧攻め作戦である「三木の干し殺し」が2年近く行われ、城主の別所長治べっしょながはるは城兵の助命を条件に自害。落城を迎えたことで知られています。

ちなみに、秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛(重治)は、三木城を包囲している最中に亡くなったため、三木市にお墓が建てられています。

三木市にある竹中半兵衛の墓

その後も秀吉の側近として各地を転戦。

大きな転機となったのが、やはり天正10年(1582年)【本能寺の変】でした。

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明智光秀軍を相手に勝竜寺城攻め

主君の秀吉は、備中高松城(岡山市)を水攻めしていたものの、敵方の毛利家と和睦を結んで「中国大返し」と呼ばれる強行軍で京都へ向かいます。

この行軍に、福島正則さんも同行していました。

そして、本能寺の変から11日後に、秀吉軍と明智光秀軍との【山崎の戦い】が勃発。

秀吉軍は勝利を収めますが、この時に福島正則さんは明智光秀の支城となっていた勝竜寺城しょうりゅうじじょう(京都府長岡京市)攻めで武功を挙げたそうです。

ちなみに、この勝竜寺城は、かつて細川幽斎(細川藤孝)の居城であり、明智光秀の娘のガラシャ(玉)が嫁ぎ、夫の細川忠興と新婚生活を送った場所でもあります。

山崎の戦いで敗れた明智光秀は、勝竜寺城に入ったものの、福島正則さんを含む秀吉の大軍を前に撤退を決意。

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居城の坂本城(滋賀県大津市)を目指しますが、その途中の京都・小栗栖おぐるす(京都市伏見区)で落ち武者狩りに遭い、亡くなってしまうのです。

勝竜寺城

こうして、秀吉は天下取りレースの有力者に急浮上!

翌年の天正11年(1583年)には、織田家の後継者争いで対立した柴田勝家と激突。あの「賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい」(滋賀県長浜市)が起こります。

この合戦で超が付くほどの大活躍をしたのが、福島正則さんです。

福島正則さんは戦場での誉れである「一番槍」(戦場で一番初めに敵陣に槍を突き入れること)を果たします。さらに敵将の首を誰よりも早く取る「一番首」の武功を挙げました。

この戦いで秀吉軍は大勝利!

特に活躍した秀吉の家臣は、戦国好きにはおなじみ「賤ヶ岳の七本槍」と称されました。その筆頭が、何を隠そう福島正則さんです。

7人の中では他に幼馴染の加藤清正が有名ですね。残りのメンバー(加藤嘉明、脇坂安治片桐且元かたぎりかつもと、平野長泰、糟谷武則かすやたけのり)は3,000石の褒賞ながら、福島正則さんは5,000石をゲットしているのです。

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