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織田家 その日、歴史が動いた

丹羽長秀(米五郎左)とは? 派手な織田軍団でお米のように欠かせない人と評された理由

更新日:

なんか名前は聞いたことがある 「ミスターオール4」丹羽長秀

恋愛でも仕事でも遊びでも、相性のいい相手と出会えると嬉しいものです。
が、なかなか簡単には見つかりませんよね。
出会いを求めていてもうまくいかないのに、ふとしたきっかけで話し込んだ相手と意気投合……なんてこともあるのが人生の奥深さというかなんというか。
あの信長にとっても、そんな相手がいました。

天正十三年(1585年)の4月16日に亡くなった丹羽長秀という武将です。

彼は取り立てて身分が高いわけでもなく、織田家譜代の家臣でもなく、さらにこれといった武功も上げていなかったので、「聞いたことあるようなないような名前だな」と感じる人が多いかもしれませんね。
しかし、長秀はあの信長をして「友であり兄弟である」と言わしめたほど信頼されていました。
なぜかというと、とんでもなく器用な人だったからです。
戦でも内政でも、とにかく全ての面において一定以上の手腕を発揮できるという、他の家臣たちにはなかなかできない働き方をしていました。
現代で例えるなら、ミスターオール4というような感じでしょうか。

 

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馬そろえで一番に! 地味すぎてだれも気付かず?

個性派揃いの信長家臣団では、どちらかというと「得意科目は5だけど他は……」なタイプが多かったので、一歩間違うと器用貧乏扱いされてしまう長秀のような存在は逆に重宝されました。
その証拠に、信長の一大軍事イベント”京都御馬揃え”でもいの一番に位置づけられています。
正親町天皇臨席でまさに織田家の威信がかかったこの行事、失敗はもちろん寸分の狂いも許されません。そんな大切なイベントの先頭を任されたこと自体が、長秀への信頼を如実に表しています。

長秀本人は上記のように優等生的な存在だったのですが、それを鼻にかけず、出世したがる質ではなかったことも良かったのかもしれません。

 

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信長の友でずっといたい!

信長が九州方面の攻略を計画したとき、地元民を心理的に服属させるため、九州の官位や姓を家臣に与えた時のエピソードにこんな話があるのです。

秀吉は「筑前守」(筑前=現・福岡県、そこの役人という意味)という官名、明智光秀は「惟任」(これとう)という九州の由緒ある名字をもらいました。
このとき長秀も「惟住」(これずみ)という名字をもらうことになったのですが、彼は一度断っているのです。
その理由は「私は一生”五郎左”のままでいいので」という何とも謙虚なもの。

五郎左というのは五郎+左衛門尉(官位名)の略称で、長秀の通称として広く使われていました。
彼の器用振りを称えて「米のように何にでも合う奴」ということで”米五郎左”、はたまた戦時の勇猛さを評して”鬼五郎左”などなど、この呼び名がついたあだ名もいくつかつけられています。
しかし、長秀はそうした単なる愛着以外にも、別の意味をこめてこう言ったのではないでしょうか。

それはもちろん、信長に対してです。
この時代、よほどのことがなければ主君であってもそうそう本名を呼ぶことはありません。ほとんどの場合は官名(自称含む)で呼び表します。親しみを表すためにあえて幼名や通称を用いるということもよくありました。幼名の場合罵倒するために使うケースもありますけどゲフンゲフン。

ですので、信長は”友であり兄弟”である長秀のことを当然「五郎左」と呼んでいたでしょう。
だとすると、名家の名字を断ったのは「私はエライ家の名前なんかもらわなくても、親しく呼んでもらえるような距離で働きたいんです」という、長秀の意思表示だったのではないでしょうか。
結局後でもらうことになるんですけども、多分断りきれなかったんでしょうね。

他にも長秀は信長の養女(姪っ子)と結婚し、さらに息子・長重には信長自身の娘をもらうという二重の縁で結ばれた主従でした。
信長も他家の例に漏れず、政略結婚であちこちへ娘や養女を嫁がせていますが、同じ家臣の家と二回結婚したのは丹羽家だけです。誼を結ぶだけなら一回でいいのですから、「アイツとその息子は信頼できる」と思ったからこそそうしたのでしょう。

 

子孫は関ヶ原で西軍につくも復活、明治維新まで大名

上記の通り、長秀は本能寺の変から三年ほどで亡くなってしまったのですが、長重は(途中で改易されたこともあるものの)江戸時代まで生き延びました。
さらに、長重の家系は何度か転封はされたものの、明治時代まで大名として存続しています。
これも他の織田家重臣たちにはない特徴です。
信長って家臣だけでなく、優秀な婿を選ぶのも得意だったんでしょうね。あんまりいい死に方した人いないですけど、戦国時代だから仕方ない。

地味ではあっても何でもそつなくこなし、結果家を存続させることができた長秀は、まさに”米五郎左”のままであり続けたと言えましょう。
育てる気もないくせに最初から「万能」「プロフェッショナル」を求める昨今の採用・教育担当の方々には、こうしたタイプも考慮に入れて欲しいものです。
世の中で大きな成功を収められる人はほんの一握りですし、逆に「大きな失敗をしない」ことも才能の一つですからね。

長月 七紀・記

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参考:丹羽長秀/wikipedia 国史大辞典

 





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