二条城は超画期的だった!? 六角親子を倒し、浅井長政に裏切られるまで

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安土城にはプロトタイプが存在する

早いもので今回で5回目となる【シリーズ・信長の城】。

前回は岐阜城に挑み、次はいよいよ安土城!と行きたいところですが、マニアであればスルーできない織田信長の城がいくつか存在します。

「エッ!? 信長の城って小牧山、岐阜、安土だけじゃないの!?」

そんなナイスリアクションの方々に贈る信長の城です。

実は、岐阜城の築城から安土城までの間には、信長自らの居城にはしなかったものの、安土城のプロトタイプともいうべき城がいくつか存在。

それが足利義昭のために京都に築城した「二条城」と、近江から京へ入る玄関口に築城した「宇佐山城(うさやまじょう)」です。

今回は信長の上洛戦を追っていきながら、近江や京都、畿内の諸城も一緒に見て参りましょう!

 


信長、いよいよ上洛

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©2015Google,ZENRIN

永禄11年(1568年)8月、織田信長は足利義昭を奉じて、いよいよ上洛します。

美濃から京への道のりには近江を通過していかなければなりませんが、北近江の浅井家とは婚姻を通じて既に同盟。通り抜けねばならない敵の領地は、南近江の六角家のみでした。

そこで信長はまず、浅井領と六角領の境い目の城、「佐和山城(さわやまじょう)」まで進みます。後に石田三成の居城として有名になりますが、この当時の城主はもちろん違います。

佐和山城は北陸へ向かう北国街道と、美濃方面へ向かう東山道を押さえ、さらには琵琶湖の水運も管理する場所として昔から北近江と南近江で奪い合ってきた交通の要衝でした。

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当時の佐和山城は城の近くまで琵琶湖の内湖が迫っており、水運の拠点にもなっていました/©2015Google,ZENRIN

 

信長の上洛時点では浅井家の南近江への拠点の城となっており、猛将・磯野員昌(いそのかずまさ)の居城。信長公記には「信長が佐和山城に入城した」とサラッと書かれておりますが、この出来事は浅井方の裏切りフラグの第一歩として無視できない重要な出来事です。同盟国の当主とはいえ、交通の要衝にして浅井家の利権も集まるこの北近江の最前線の城に信長を招いたわけです。

ここで浅井家裏切りまでの過程を数値化するために「ICHI メーター」を設置しましょう。

このICHIメーターが10を示すと、信長に対する浅井家の不信と怒りが頂点に達し「裏切り」を発動します。

え!? イチロー???

違います。信長の妹にして浅井長政の妻「お市の方」のICHIです。

もっとも、お市が両脇を縛った小豆の袋を信長に送って裏切りを知らせたというのは後年の創作ですけどね。

 


信長派だった磯野員昌が率先して佐和山城入城を促す

浅井長政は佐和山城まで出向き、このとき初めて義理の兄・信長と顔を合わせたと云われています。

佐和山城主・磯野員昌は「なっ!なっ!俺の言った通りだろ?」と信長の訪問にご満悦。そもそも信長を若い頃からずっとスカウティングしてきたのが磯野員昌でした。

員昌は、信長が尾張をようやく統一するかしないかという時期に「ナゴヤに信長とかいう将来有望なのがいるから今のうちにツバつけといたほうがいい」と、名スカウト振りを発揮して、長政と市の婚姻を積極的に勧めたのです。

ゆえに今回の訪問も、長政や礒野員昌などの信長派にとっては歓迎ムードでしたが、一方で、浅井家の重臣・遠藤直経は信長のほとばしる有能さを見せつけられて「若い芽のうちに摘んでおいた方がいい」と暗殺を進言したとも云われています。もっともこれは後年の創作で、遠藤直経も信長の外交手腕に心酔して信長派になってしまいます。

とはいえ、この逸話が示すように、織田家の佐和山進出を快く思っていない勢力が浅井家に確かにおりました。特に長政の父・久政を始め、【浅井家がどの大国にも属さず緩衝地帯となって国を維持する】という国家戦略を信奉する勢力は、信長が鬱陶しくて仕方なかったでしょう。

信長の佐和山城入城を快く思わない勢力の存在にICHIメーターは「1」へ上昇、ピッ!

 

この御内書が目に入らぬかぁ! 入らぬかぁ! 入らぬ……

信長は佐和山城に7日間逗留。

ここから朝倉家や六角家を始めとする諸大名に足利義昭の「御内書(ごないしょ)」、つまり将軍の命令書を発して参陣を促しました。

御内書の発行は足利将軍家のリーサルウェポンです。

自前の軍を持たない足利将軍家は、自ら発行する御内書で各地の大名に命令を発することができました。一般的に戦国時代は下剋上の世の中で、足利将軍家も京を追放されたり、亡命先でもお荷物扱いされたりで、もう将軍権力は地に堕ちたと考えられがちです。

そうであるならば、とっくに滅ぼされていいはずの足利将軍家がこの時代もまだ継続しているということは、足利将軍家の威光はまだま十分に「使える」ものでした。

この使える「将軍家の威光」=「御内書の発行」なのです。

 

信長もこれを期待して義昭の名で御内書を各地に発しました。

しかし浅井家と敵対する六角家や、越前の朝倉家にも無視されます。信長はあこがれの足利将軍家が号令をかければ諸大名が参陣するものと信じていただけに、義昭の不人気っぷりと、何より自らの知名度と信用の無さにも愕然としたことでしょう。

そして「足利将軍家の威光」=「義昭の威光」でないことにも今更ながら気付きます。威光のない義昭が御内書を発しても諸大名は動きません。三好三人衆の傀儡とはいえ現将軍(第14代)は足利義栄です。

浅井家の信長派は「朝倉さんが無視!? き、きっと御内書が届いてないに違いない、はは、ははは(汗)」とさらに焦ったことでしょう。

しかし長政の父、浅井久政を中心とする反信長派にとって、朝倉家と六角家のパワーバランスの中で生き残るには、六角家も朝倉家も動かないというのは都合のいい状態です。これ以上、信長にかき回してもらっては困ります。信長派が動揺し、反信長派が「ほれ見たことか!」と自信をつけてICHIメーターが「2」に上がりました。


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