織田信長

織田信長/wikipediaより引用

織田家

織田信長 史実の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ年表付

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凄惨な見せしめとは?

大河ドラマ『軍師官兵衛』では、村重の妻・だし(桐谷美玲さん・信長公記では「たし」)に悲劇がクローズアップされ、ほとんど触れられなかったが、織田信長は「悪人を懲らしめるため」として、かなり苛烈な処置を配下の者に命令したのだ。

以下、信長公記より要点をまとめて表記する。

荒木村重の身内は京都で成敗するため30人余り牢へ収容→後に、京都市中を引き回して斬首

・村重配下の妻子を磔

・122人の人質を鉄砲で撃ち殺したり、槍や薙刀で刺し殺す(幼児がいれば母が抱いたまま殺す)

・中級以下の武士の妻子と侍女388人・男124人を家4軒に押し込め、枯れ草を積んで焼き殺す(「魚が反り返り飛び跳ねるように」亡くなったと記述されている)

もはやかける言葉も見当たらないほどの場面であるが、信長公記でも「これほど多数の成敗は、歴史始まって以来初めて」というから、現場は我々の想像も超えているのだろう。

以前より美人として知られた荒木村重の妻・たしは最期のときも凛として見事だったという。事前に辞世となる歌が多く詠まれており、腹を決めていたのだろうか。

なお、この有岡城包囲戦の合間に、安土城が完成し、豪華絢爛な天主(のちの天守)が披露された。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ

織田信長は狩野永徳に「梅の絵」も描かせたりしている。

戦国の世のならいとはいえ、あまりに峻烈な戦場と、その一方で優雅な芸術が同居。

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このころ織田信長は石清水八幡宮の社殿も修築したり、北条氏政との交流を深めたり(鷹が献上されたりしていた)、刻一刻と天下人への道筋を固めており、荒木の反乱はあまりに時勢の見えてない判断であった。

ちなみに安土城の大工棟梁は岡部又右衛門と言い、映画『火天の城』で西田敏行さんが演じている。

同映画では、安土城の支柱調達のため西田さん自ら木曽へ出向き、笹野高史さん扮する木曽義昌に殺されそうになっているのが興味深い。

このころ木曽はまだ、確かに武田領であった。

 

三木城と石山本願寺

1580年1月、羽柴秀吉が三木城の攻略に成功した。

荒木村重の妻子や侍女たちの悲劇は三木城城主・別所長治の耳にも届いており、「そうなりたくはない」と願った長治は、秀吉からの降伏勧告に素直に従ったのである。

「3名(別所長治・吉親・友之)は切腹するので城内の将兵たちは命を助けて欲しい」

長治は「御憐憫をもってご助命ください」と願っており、これに感銘を受けた秀吉が酒樽を城内へ送り届けると、長治は三歳の幼児を膝に置いて刺殺し、妻も同様に処すると自ら腹を切った。

介錯をした三宅肥前入道という家臣は、主君の首を切り落とした後、自らは腹を十文字に切り、腸を引きずり出して死す。

と、簡単に申し上げたものの、実際、このように十字に切って死ぬ(十文字腹という)のは相当難しく、現代医学で考察してみると、その途中で失神してしまうこともあるという(以下に参照記事あり)。

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最後まで敢行するには相当の気力が必要で、後に、秀吉のことを恨みに恨んで同じ切腹をしたのが、織田信長の息子・織田信孝であるというのは皮肉だろうか。

蛇足だが、信孝は切腹する際、次のような辞世の句を詠んでいる。

昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

秀吉の息子・秀頼の死を考えれば、まさにその報いはくだされたワケだが、話を本題へ戻そう。

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三木城が降伏すると、もはやこれまでと思ったのであろうか、石山本願寺正親町天皇の意向を受けて、織田信長との和睦に応じた。

門跡(リーダー)の本願寺顕如が大坂から退去するのであり、実質的には織田方の勝利である。

それが1580年4月のことだが、実際は一悶着あった。

顕如が雑賀(和歌山県)へ退いても、新門跡で息子の本願寺教如が引き続いての抗戦を主張したのである。

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結局、彼らが去るのは8月になってからのこと。

実に49年もの間、彼ら一向宗は石山本願寺で暮らしており、長く親しんだ土地から離れるのは辛かったのであろう、と信長公記ではその心中を察している。

最後まで残った本願寺教如一派が、いざ退去するときには、同寺を隅々まで補修・掃除をして、おまけに槍や鉄砲などの武器をすべて掛けて置いたという。

そして雑賀や淡路島からやってきた数百艘の船に乗り、門徒たちは散り散りに別れていった。

※ただし、明け渡しの直後に松明の火がお堂に燃え移り、本願寺は三昼夜に渡って燃え続け、完全に灰と化した

一方、三木城の攻略に成功した秀吉は、その勢いを駆って播磨、但馬両国を制した。

更には1581年になると「城兵・民衆を大量に餓死させた」ことで知られる鳥取城も陥落(鳥取城の渇え殺し)。

なお、三木城は「干し殺し」として知られ、いよいよ西国・毛利との一大決戦前夜を迎えつつあった。

 

京都御馬揃え

織田信長もそんな状況を意識していたのであろう。

1581年1月には、明智光秀に命令して「京都御馬揃え」という一大イベントを開催。

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織田家ゆかりの諸大名や国衆を従えて行う軍事パレードで、「本能寺を出発した一行は、室町通を北へ上り、一条を折れて馬場に入った」とある。※少し細かくなるが、そのメンツを記事末に記しておく。

このとき織田信長は「大黒(おおぐろ)」とい名馬に跨っており、身にまとった衣装は細川忠興が京都を探し回って見つけたものだった。

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ちなみに前年の1580年、織田信長は村井貞勝に命じて、本願寺に滞在するための工事をさせていた。

相変わらず鷹狩りにも精を出しており(信長公記には何度もその記述が登場する)、3月には北条氏政から献上された鷹13羽などを本能寺で受け取っている。

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その取次役が滝川一益だったのは、後に甲州(武田)征伐から関東方面軍へ進めるための顔合わせだったのかもしれない。

こうした政治外交工作により、関八州は北条家の領国であると、織田信長は認めた。

※関八州……相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸(or伊豆)

また、同じく1580年の6月には、明智光秀を介して長宗我部元親からも鷹16羽と砂糖が献上されている。

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長宗我部元親と明智光秀の関係は後に複雑なものとなり、間もなく訪れる「本能寺の変」の原因ともされ、2014年に再発見された史料「石谷家文書」から事件解決への試みが進められている。

※史料の内容は、浅利尚民・内池英樹編『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世(吉川弘文館)』(→amazon)。

 

高野山包囲

織田信長に敵対した仏教勢力と言えば?

比叡山延暦寺――と戦国ファンなら誰もが即答されるだろうが、実際は彼らだけではない。

最澄が建てた延暦寺と並んで敬われる空海の高野山・金剛峰寺。

実は同山も織田信長相手にトラブルを抱えていた。

1581年9月、織田軍が高野聖(高野山の僧たち)を数百人捕らえて、ことごとく成敗したのである。

この前年(1580年)、佐久間信盛親子が高野山へ追放されていたが、同山では他に荒木村重たちの残党や、織田信長に追われた者たちを匿っていたとされ、更には信長が派遣した使者10数名を高野山の者が殺したという。

なお、佐久間親子は間もなく熊野へ向かい、その後、信盛が死ぬと、息子の佐久間信栄は赦されて旧領を回復する。

一方で、武装していない寺社や皇室に相変わらず手厚く、このころ久しく途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮を復興させている。

伊勢の大神宮・上部貞永が、名人久太郎こと堀秀政を通じて織田信長の援助を求めており、相手の希望額が「千貫(推定1億~1億5千万円)です」と伝えたところ、意外な答えが返ってきた。

「2年前に手がけた石清水八幡宮の修築では当初の見積もりは三百貫で、実際は1千貫かかったのだから、今回も多めに用意して三千貫を渡しておこう」

こんなオシャレな気遣いを見せている。仏敵や朝敵でないことはご理解いただけるだろう。

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かくしていささか平穏な日々が過ぎゆくように見える最中、織田家にとっては大きな吉報がもたらされた。

1582年2月、信州木曽の木曽義昌が武田を見限り、織田方に転じるというのだ。

木曽義昌は武田信玄の娘婿であり、対織田の重要拠点であり、また最前線の防波堤でもあった。

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甲州征伐

寝返りを報告してきたのは苗木城(岐阜県中津川市)の遠山友忠であり、織田信忠を通じて織田信長に報告されると、木曽から織田へ人質が送られ、すぐさま武田も動く。

武田勝頼・武田信勝親子を中心とした1万5千の軍勢が出発したのだ。

むろん木曽に対する出撃である。

しかしこれが同家滅亡への端緒になってしまう。

織田信長もすぐに対応し、駿河からは徳川家康、関東では北条氏政、飛騨から金森長近、美濃から伊那へは織田信忠と自らが進むように差配する。

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武田方では長篠の合戦の敗戦後、新府城への移転などをはじめ家臣・民衆たちに対する重い負担が勝頼への不満となっていたのであろう。

木曽義昌に続く裏切り者が早くも出て、しかも徳川、北条の大国から同時に攻められ、絶体絶命の状況となった。

織田信長は、勝利を半ば確信していたのであろうか。

畿内や四国、中国地方などの軍勢の配置を慎重に指示しつつ、武田家への進軍、通称「甲州征伐」には少数精鋭で兵糧が続くようにとの指令も出した。

いざ甲州征伐が始まると、武田の守りは脆いものであった。

現代でもよく武田信玄と織田信長が対比され、信玄が全盛ならば信長に負けるわけがない――とまことしやかに語られるが、両者にはそもそもの領土経営に大きな違いがあった。

信玄は、他国・他城を制圧することがあっても決して本拠地は変えない。

一方の織田信長は、前述の通り、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と次々に移転していった。

これは単に城の本拠地を変えたということではなく、自らが進んだ領地を完全に自分のルールに従わせており、武田よりも支配力で大きく上回っていたのである。

武田家は本拠地から遠くなればなるほど支配力が弱まり、早い話、裏切られやすくなるのである。実際、木曽義昌がそうであったように。

しかもである。

いざ甲州征伐が始まると、武田領内の農民たちが自宅に自ら火を放ち、織田方に流れてきて同軍を驚かせる場面があった。

農民たち曰く、武田勝頼が課する重税や関所に耐えきれなくなったばかりか、国内では賄賂が横行し、簡単に磔や斬首が行われる政治に嫌気が差していたというのだ。

果たしてドコまで真実かは不明であるが、人心が離れていたのだけは間違いなく、その証拠に武田家の中でも家格が高い信玄の甥・穴山梅雪までもが、徳川家康への帰順を示し、勝頼を裏切る。

もはや武田軍は、一時、軍を撤退させて、立て直すほかなかった。

こうした状況の中、唯一、気を吐いたのが勝頼の弟・仁科盛信(にしなもりのぶ)だ。

父は武田信玄(5男、勝頼は4男)、母は甲斐の名門である油川家の娘・油川夫人という、同家のエリートにして猛将であり、高遠城の城主だった。

仁科盛信が約3,000の寡兵(一説に500)を従え、高遠城の守備についていたところへ、攻めかかった織田軍は約5万。

この絶望的な兵力の差にも関わらず、城内の将兵たちは討死覚悟で決戦に挑み、死者・負傷者は「ごった返して数え切れない」状況だったという。

勇猛だったのは織田信忠も同じ。

自ら武器を持って突進し、塀の上から「突入せよ!」と号令をかけたという(信長公記)。

まるで昔の織田信長であるが、いささか著者・太田牛一のリップ・サービスのような気がしないでもない。

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その後、織田信忠は信州・諏訪方面へ向かい、徳川家康は穴山梅雪と共に甲斐へ侵攻。

一方の勝頼は、諏訪方面から信忠がやって来ると知ると、新府城に火を放って退去する。

このとき多くの人質が残され焼死したという話があり、後の勝頼愚将説を強める要因になっているのかもしれない。

ともかく、逃げ場のなくなった勝頼一行は、小山田信茂を頼ってその城へ向かうも、土壇場になって追い返され、もはや完全に逃げ道は塞がれてしまった。

勝頼の夫人や側室、信玄の娘や信虎(信玄の父)が産ませた娘など、かつて栄華を誇った女性たちも200名ほどいたが、大半は馬や輿に乗ることもできず足は血に染まり、哀れというほかない姿であったという。

1582年3月、武田勝頼は女・子供たちを引き寄せ、「花を折るように」刺殺し、そして自らも命を絶った。

彼らが絶命するまでの間、最後まで付き添った家臣たちは、全員、織田軍に襲いかかり、そして全員、討ち死にしている。

とりわけ土屋昌恒は、織田方の屈強な兵たちを何人も倒し、「比類なき働き」として讃えられている。

また、勝頼の子・信勝も勇敢に戦い、後世に名を残す働きだったとして『信長公記』にも称賛されている。

1582年3月、武田家は滅びた。

 

本能寺前夜

甲州征伐の後、武田家を見限った木曽義昌、穴山梅雪は織田信長に拝謁し、褒美を渡された。

本領も安堵されている。

また、関東の北条氏政は使者を出して馬や酒、米などを献上している。

同家との取次役を果たし、関東の上野、信州二郡を受領したのが滝川一益だ。

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穴山の所領を除く甲斐ならびに諏訪一郡は河尻秀隆に任され、駿河は徳川家康、信濃の四郡は森長可に託され、更に金山・米田島(岐阜県加茂郡)は織田信長の小姓として有名な森蘭丸(長定)のものとなった。

かくして旧・武田領の配分が終わると織田信長は帰国の途につき、その途中、富士山を眺めている。

どうやら山梨県北杜市辺りからまだ雪の多い同山をとらえたようで、戦から一時でも解放されてホッとしたのであろう。将兵たちは皆、心を踊らせたという。

一方で、武田の残党を匿ったとして甲斐恵林寺の快川紹喜和尚ほか、多くの名僧たちが殺されもしている。

その数、約150人。興味深いのは、農民たちも率先して残党狩りに勤しんでいる様子がうかがえることだろうか。

菅沼満直という長篠の国衆が討たれ、首と引き換えに黄金の褒美を受け取った話が広がると、同様のケースが相次いだとの報告も寄せられた。

当時の農民たちが、ただ単に蹂躙される存在ではないことがわかる一面かもしれない。

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また、旧武田領では織田の支配に快く思わない者もおり、飯山(長野県飯山市)では一揆が勃発した。

森長可が鎮圧することになり、約2,500人もの一揆勢が討ち取られている。

女・子供も千人以上含まれており、「粉骨砕身の活躍」と評されて入るが、長可の苛烈な性格が垣間見えるエピソードとして戦国ファンには知られているだろう。

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織田信長が安土城へ帰ったのは1582年4月。ご存知、本能寺の変までわずか2ヶ月のことであった。

 

本能寺

織田信長の生涯の中で、最も謎とされているもの。それが本能寺の変であることは異論はないであろう。

明智光秀はなぜ信長を討たねばならなかったのか?

その状況をあらためて本能寺の変前の状況を考察してみたい。

1 柴田勝家らは北陸遠征中

2 滝川一益は関東へ

3 織田信孝と丹羽長秀は四国への渡海準備

4 羽柴秀吉は高松城を水攻め

5 織田信長は九州平定まで視野に入れ、毛利攻めの支度を開始

6 毛利攻めの準備として、明智光秀・細川忠興、池田恒興・高山右近・中川清秀らに出陣の準備命令

7 徳川家康が穴山梅雪と共に安土城を訪問

大まかに、かような状況であった。

家康の安土城訪問で接待役に任ぜられた明智光秀が突如として解任され、メンツを潰されたことから恨みに思い、本能寺の変を起こした――という「怨恨説」が有名だが、そもそも解任されたかどうかが怪しく、信憑性はかなり疑わしいとされている。

本能寺の変は、邪馬台国、坂本龍馬の暗殺に並ぶ「三大日本史の謎」とも言われるくらいで、以下のように著名な説だけでも多数ある。

本能寺の変諸説

・怨恨説

・野望説

・怨恨説

・野望説

・朝廷黒幕説(光秀勤王家説)

足利義昭黒幕説(光秀幕臣説)

・秀吉黒幕説

・四国動乱説

・光秀高齢説

・家康謀殺計画からの発展説

詳しくは、以下の記事に譲るとして、

本能寺の変
本能寺の変で光秀はなぜ信長を裏切ったか 諸説検証で浮かぶ有力説は?

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結論だけ述べると……。

【突発的な単独犯行説】が合理的ではなかろうか。

一言で乱暴に表すなら「勢い」というものだが、それにはもちろん理由がある。

突発的な単独犯行説

・光秀がクーデターを成功させるには織田信長と織田信忠の両者を討ち取らねばならない

・それが偶然、両者とも京都に滞在

・しかもほとんど無防備

・光秀は大軍を動かす正当な理由があった

・有力な家臣たちは皆地方で戦っておりスグには戻ってこれない

こうした奇跡的な条件が揃ったため、光秀は動いたのであろう。

織田政権を奪取するには、とにかく信長と信忠を同時に討ち取らねばならない

しかし両者が無防備な状態でいることなど、ほとんど考えられない。

事前に誰かと共謀したり、計画を立てることなど不可能。

それが偶然起こったのだ。

いずれにせよ、稀代の英雄・織田信長は京都の本能寺にて1582年6月2日未明、この世を去った。

49歳だった。

この後、天下統一の最後のパーツをはめたのは、豊臣秀吉(羽柴秀吉)である。

そして次の天下人は徳川家康。

織田信長は妹を嫁がせた浅井長政をはじめ、多くの裏切りにあっているが、最後まで裏切らなかった2人が天下人になれたというのは、現代人にとっても多くの学びを与えてくれるのではないだろうか。

年表や関連記事は、次ページにまとめさせていただいた。連載『信長公記』等も併せてご覧いただければ幸いである。

イラスト:富永商太
文:五十嵐利休(編集人)

※城郭研究の第一人者・千田嘉博先生にツイートしていただきました! 嬉しいです(T_T)

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